今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

言霊

(写真:ミツバチの頃)

言霊

少しオカルトな話です。
よく、「言霊」と言います。
古来、人間の発する言葉には「言霊」と言う霊的な力が宿ると信じられてきました。良い言葉は良い事象を、悪い言葉は悪い事象を引き起こす力があると信じられ、「あんな奴なんか死んでしまえば良い」と冗談にも言おうものなら、その発せられた言葉の力によって相手に災厄が降りかかり、自分もその報いを受けると戒められました。
だから、うかうかと無責任な放言や、人の誹謗中傷などできません。その言霊が巡り巡って、どんな災難を自分に引き起こすか分からないからです。
そうやって、私たちが身を誤らないよう、言動を慎むように導いているとも言えます。
しかし、本当に言葉に運命を作る力が宿っていると言ったら、あなたは信じられますか?

言葉は力を持つ

人や自分に直接影響を及ぼすのは、私たちが身体で行う行為です。
例えば、暴力を振るえば、相手は血を流して傷つきます。
だから、法律は主に私たちが身体で行う行為を取り締まります。
それに対して、口の行いは幾分大目に見られます。
口で「殺してやる!」と叫んでも、それで実際に相手が死ぬわけでもなければ、警察に捕まるわけでもありません。もっとも、あまりに甚だしい場合は、恐喝罪が適用されるでしょうが。
その口の行いは主に道徳で取り締まられます。セクハラやパワハラも、企業倫理の範疇です。
口の行いは、音に出せば誰かが聞くところとなります。しかし、次の瞬間には霧散するので、録音でもしなければ証拠は残りません。
ましてや、陰での悪口も聞く人がいなければ、誰にも知られることなく、それで相済みに思えます。
それを取り締まるのは、個人の道徳心に負うところが大きいので、道徳、倫理のカテゴリーとなります。
しかし、霊的な力が宿らずとも、言葉には自分の運命を変える力が宿っています。
それを、口の行い、口業と言います。

三業

口業だけではありません。
身体の行い「身業」は言うに及ばず、心の行い「意業」もみな運命を生み出す力を持ちます。
身業、口業、意業、この三つで私たちの行いの全てを総括できます。そして、これを三業と言います。
「業」と言えば「自業自得」が思い出されます。この「自業自得」は、自分の身体、口、心の三業が、自得、すなわち自分の運命を決めると言う教えです。
身体で泥棒をすれば、その報いで生活に困窮し、つまはじきになって生きねばなりません。人殺しをすれば、今度は自分がつけ狙われて、最後には酷い死に方をします。
さらに、口の行いも、心の行いも、種まきに応じた結果を生じ、それによってたいへんな不幸にも、反対に幸せにもなります。
私たちの行為の痕跡は時間が経てば跡形もなく消えますが、行為をした事実は消えず、同等の報いを生み出す秘めた力を持つからです。
人に呪いの言葉を吐いても、その時はすぐに風に流され消え去りますが、呪いの言葉は力を持ち、巡り巡って言われた相手と同じ苦しみを自分にもたらします。
やりっぱなし、言いっ放し、呪いっぱなしはないのです。

陰徳こそ肝要

最近のイジメは陰湿になって、ネットを使って正体を明かさずに相手を攻撃します。
たまに、爆弾の予告をして捕まる人もいますが、他にネットの中傷で捕まったなどは聞いたことがありません。
それで、ますます煽られるように、よってたかって一人に総攻撃をかけます。
その酷い中傷に耐えきれず、韓国では有名人が次々と自殺しました。
ネットで拡散した言葉は、さらに拡散に拡散を続け、もはや誰が発したか分からなくなります。
そこに最初の発言者の個人的責任を問うても、もはや詮無いことでしょう。
しかし、
パソコンのキーボードから発した言葉であろうが、それには言霊が宿ります。
発した言葉は、発言者自身に必ず同等の報いをもたらすのです。
ネットで発言した言葉で誰かを追い詰め、自殺に追い込んだら、いつか自分が死ぬまで追い詰められることになります。
それは、匿名だからとか、警察に捕まらなかったからとかは関係ありません。
なぜなら、誰が知ろうが知るまいが、言葉には運命を生み出す力が宿るからです。
そして、その力が自分自身に跳ね返り、相応の結果をもたらします。
ですから、身体も口も、心でさえも、人の見えないところの行いを正さねばなりません。
すなわち、陰徳こそ肝要であります。