成長とは、考え方×情熱×能力#92
レッドクイーン再び
さらさらと流れる小川を模した光がホールの壁一面に満ちた。
それに合わせて、今度はアンサンブルメンバーによるアカペラの合唱がはじまった。
♫夏がくれば思い出す
はるかな尾瀬 とおい空
きりの中に 浮びくる
やさしい影 野の小路
唱歌『夏の思い出』ののびやかな斉唱である。
高めの暖房は夏の暑さを演出し、時折吹き込む涼やかな風は小川を吹き渡るそよ風を表現している。
さらさらと涼やかな水音が聞こえて来そうな光の乱舞の中、招待客たちは出されたスイカの清涼感に歓声をあげる。
「この時期に、こんなみずみずしいスイカはかなり希少なのでしょう?」
「やはり、温室栽培なのでしょうね。」
希美と由香里がスイカについて会話を始め、そこに森一郎が加わった。
「東大寺農業ファームには、最新の温室設備があります。そこで、年中採れたてのスイカやイチゴ、メロンが収穫できるんですよ。」
しかし、森一郎は先ほど、「師匠の農園のスイカ」と言った。東大寺老人の農園には、ハウス設備は存在しない。
だが、直接農作業に携わらなくても、老人が丹精を込めて作り上げた東大寺農業ファーム全体が森一郎にとっての「師匠の農園」だった。
「他にも、いろいろありますよ。どうか、そのまま召し上がってください。」
そう言って、氷水を満たしたクーラーボックスから、水の滴るトマトを取り出した。
しかし、それを見た希美は少し眉をひそめて、
「あの、わたくし、トマトは苦手ですの」と断ろうとした。
「まあ、どうしてですの?」
嬉々として、トマトを受け取った由香里が不思議そうに聞いた。
「ほら、ルビーのように、とてもキレイですわ。」
「いや、その、もっと甘みがあるなら良いのですけど。」
そこで、森一郎は希美に、
「でも、りんごなら、大丈夫でしょう?」と問いかけた。
「え、まあ。」
「りんごと思って、どうですか?」
「あ、はい・・・。」
希美は、恐る恐るトマトを受け取る。
そして、手に収まりそうな、その果実をそっと指で押してみた。
「思ったより、しっかりしてますのね。」
「どうぞ、一口、そのままどうぞ。」
森一郎に促されて、希美はトマトに軽く歯を当てた。そして、一切れ噛み切って口に含んだ。
「あ・・・。」
「でしょ?」
頰に手を当てて、
「まるで、フルーツみたいですわね。そう、りんごと言われれば、そんな気もします。」
「本来、トマトは乾燥した場所の植物なんですよ。それなのに十分水を与えて育てるから、トマト本来の味にならないんですよ。
それをあえて乾燥した土地に植えると、糖度が増してフルーツのようなトマトになります。歯ざわりもしっかりして、いつも食べているトマトとは全く違うでしょう。」
「本当ですわね。とても冷たくて、これなら好きになれそうですわ。」
「有難うございます。なら、これからは東大寺印のトマトをご贔屓にお願いしますね。」
「うふふ、とてもご商売が上手ですのね。」
希美に褒められて、少し頰を赤らめながら、
「あ、そうだ。他にも、まだまだいろいろありますよ。」
「どんなものですの?」
「えっ、と、きゅうりとか、レタスとか。」
そう言って森一郎は、クーラーボックスからきゅうりを取り出した。
由香里が目を丸くして、
「これ、このままたべますの?」
「はい、このままです。それが一番です。」
「まあ、なんと言うか、ワイルドですわね。」
そこに、割り込んだのは、高山祐一。
「それ、僕に貰えないかな。」
「はい、どうぞ。」
そして、手渡されたきゅうりに、
「このままかじればいいのかな?」
「まず、こう持って二つに折ってください。」
そう言って森一郎は、二つに折る真似をした。
そして、その通り祐一が二つに手折ると、きゅうりからはみずみずしい果肉がはじけて、汁が飛散した。
「きゃあ。」
「あはは、凄いですわ。」
すっかり大喜びの希美と由香里。
いよいよ、宴もたけなわに近づいた時、舞台に若い女性が立った。
そして、襟のピンマイクを通して、会場全体に呼びかけた。
「あの、登場が遅くなって申し訳ありません。東大寺歌陽子です。
今晩は皆さんは、有難うございます。」
舞台袖から、間合いを図ったように起こる拍手。安希子である。
それにつられて、会場全体に拍手の渦は拡大した。
そして、皆が注視したその女性は、情熱の色を身にまとっていた。
そう、レッドクイーンの再来である。
(#93に続く)