成長とは、考え方×情熱×能力#76
おむすびの味
そのうち、克徳はいつの間にかバイオリンの演奏が変わっていることに気がついた。
さっきまでは、ゆったりとして少し滑稽感が漂うユーモレスクが流れていたはずであった。
それがいつの間にか、日本の童謡の『赤とんぼ』に変わっている。日本人なら、赤とんぼの旋律を嫌いな人はまずいないが、このパーティの雰囲気に似つかわしくはなかった。
♫夕焼け小焼けの赤とんぼ
おわれて見たのはいつの日か
誰かが曲に合わせて小さく歌っている。
はからずも、参加者たちの郷愁を誘う音色であった。
そのうち、だんだんとホールの明かりが弱くなり、その分光に赤みが増してきた。
ある程度、明かりが落ちたところで、ホールの一角目掛けて強い赤のスポットライトが照射された。そして、その中には黒いシルエットの影絵が映し出されていた。
黒い影の遠い山の端に、実を揺らした柿の木が重なり、その下に赤子をおうた少女が歩んでいた。そして、その周りをたくさんの赤とんぼが飛び回っている。
それは、童謡の世界を表現したものだった。
ホールの招待客はすっかりノスタルジーのとりこになったようだった。
そこで、松木会長がしみじみと言った。
「いやあ、今年もまた素晴らしい趣向ですな。なんだか、子供の頃を思い出しましたよ。しかし、夕焼けで夕飯を思い出したら、なんだか無性に腹が空きましたな。」
確かに、招待客にはさっきから酒と軽食しか出していない。さすがに、それでは腹がもたない。
その時、鈴を振るように、
「どうぞ」と声がした。
見ると、いかにも田舎にいそうな少女が竹皮の包みを手渡そうとしている。
その格好も、季節はずれの麦わら帽子に、動きやすいゆったりとしたチェックのシャツの前をはだけ、下には薄いティーシャツを着ていた。チェックの裾はズボンにたくしこんで、前だけはズボンの外に蝶で結んでいた。
そして、足元は泥のついた長靴を履いて、今さっきまで畑仕事をしていたかのような体だった。
その姿を見た克徳は思わず声を上げた。
「か、歌陽子、お前、何をしているんだ!」
「あ、ほんとだ。歌陽子さん、これはどういう趣向ですかな?」
松木会長も驚いて言った。
確かによく見れば、東大寺家令嬢の歌陽子である。途中から姿が見えないと思ったら、こんなところで何をしているのか。
「歌陽子。お前、なんだ、その格好は?」
父親の克徳はさらに問い詰める。
「えっ、と・・・それは。」
言葉を濁しながら、チラチラと後ろに視線を送る歌陽子。そこには、頼みの綱の先代老人がいる筈だった。
しかし、その姿は影も見当たらなかった。
たまらず、
「おじい様、おじい様」と小声で呼びかける。
「おじい様」にますます表情を険しくした克徳は、
「ちょっと来なさい!」と歌陽子の手を引っ張った。
「まあ、お待ちなさい。東大寺さんもお一つどうですか?」
その場をとりなそうと、松木会長は受け取った竹皮の包みを開いて、中のおむすびを一つ克徳に差し出した。
「おそれいります。しかし・・・。」
「さあ、どうぞ。私も食べますから。」
そう松木会長に促されて、克徳もおむすびを受け取った。
おむすびといっても、専門店やコンビニで売っているようなきれいなものでない。
形良く三角にもなっていなければ、海苔の巻き方も雑、海苔と海苔のあいだから米粒がこぼれ落ちそうである。
(こんな雑なものをお客様にお出しするなんて。子供の仕事でもあるまいに。)
そう苦々しく思いながら、一口分を口に入れた。しかし、
(ほう。)
無理に握って米を潰していないから、口に入れるとほどよく舌の上で崩れて、米の旨味が口の中に広がった。
海苔の強い海の匂いが、米本来の旨味を引き立て、さらに芯の梅干しから染み出した塩気のある酸味が味に緊張感を生み出している。
「おむすびは握りしめるものだとばかり思っていましたが、なかなか良い仕事をしますな。」
美食に慣れているはずの松木会長も、すぐに一つを平らげ、満足そうである。
「歌陽子さん、もう一つ所望できますかな?」
「はい。」
その時、少し離れたところから声が飛んで来た。
「松木さんや、まだまだ序の口じゃ。急いで腹を膨らすと後悔しますぞ。」
先代老人である。
(#77に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#75
焦れる時間
「あなた・・・。」
「ああ、志鶴か。歌陽子の具合はどうだ?」
「そのことなんですが・・・。」
「あと、かなり皿が空いてきたから、そろそろ料理を運んで貰えないか。」
「それが、そのう・・・。」
「どうした。何か言いたいことがあるなら、ハッキリ言いなさい。」
「それが・・・、歌陽子も、コックも、すべてお義父様が持って行ってしまわれました。」
お義父様、つまり先代のことが出た途端、克徳は渋い顔になった。
「持って行ったとは、一体どう言うことだ?」
「お義父様が連れていかれましたの。」
「またか・・・。」
思わず絶句する克徳。
「で、どこへ?」
「今、裏庭に集まっているようですわ。」
「やれやれ、一体今年は何をするつもりなんだ。」
ため息をついて、克徳はパーティ会場のホールを見渡した。
今、ホールには200人以上の招待客がいた。
ホールには6つの大きなテーブルが置かれ、そこを囲んでの立食パーティの形式だった。
そこで、好きな料理を選んで食べることができ、またテーブル付きのメイドに頼めばきれいに皿に取り分けてくれた。
飲み物も、盆にカクテルグラスを満載した別のメイドたちが、招待客の間を縫って配っていた。
ホールのコーナーでは、ハープとフルート、そしてバイオリンのアンサンブルが演奏をし、ときおりそれにピアノの伴奏が加わった。
また、料理をその場で調理して出せるよう屋台も何組か組んであった。
招待客の内訳は、歌陽子の昔からの学友と、東大寺家に縁のある名士たちであった。
200人と言う参加者は、昨日今日縁のあった一見さんではない。長く東大寺家や歌陽子と深い関係を築いてきた友人や取引先である。その200人に入ることは一種のステータスであり、なんとか手蔓を使って入り込もうと言う人物は毎年少なからずいた。そう、あのオリヴァー・チャンもその一人だった。
200人の殆どは、先代東大寺家正徳の代から関係のある人たちであった。克徳は、あえて自分の代でパーティへの参加者を増やそうとはしなかった。それは、誕生会の主役である娘の歌陽子とビジネスの一線を引きたいと言う父親としての思いなのかも知れない。
だが、それだけ今集まっている招待客は、東大寺家や東大寺グループにとって大切な人たちである。
それなのに、パーティの主役である歌陽子がこの場にいなかったり、次の料理が出せずに皿が殆ど空になった状態は克徳にとってあるまじき事態であった。
裏では父親である先代が動いているらしい。先代にハッキリもの申せるのは自分だけなのに、その自分が場をつなぐためにどうしてもここを離れられない。
克徳にとっては焦れるような時間であった。
「東大寺さん、奥さんも。」
「これは、松木会長。」
声をかけて来たのは、大手電機メーカー会長の松木であった。
「この度は、歌陽子さんのお誕生日おめでとうございます。」
「有難うございます。」
「しかし、早いものですなあ。お嬢さんももう21とは。この間まで小さい女の子だったのに。」
「全くです。」
「ちなみに、お嬢さんは昨年就職をされたそうですな。」
「はい、傘下の三葉ロボテクです。」
「そうですか。それは惜しいことをしました。まさか、東大寺家のご令嬢が一般企業に就職するとは思いませんでした。それが分かっていたら、我が社がポストを開けて待ってましたのに。」
松木の会社は、三葉ロボテクの何十倍も事業規模が大きい。いきなり、そこの重役待遇で迎えると言うのだ。それだけ、松木は東大寺グループと深い関係を結びたがっていた。
「いや、しかし、20そこそこの世間知らずではご迷惑をおかけするだけです。まずは、グループの会社で修行を積ませます。」
「そうですか。私どもはいつでもウェルカムです。その節はよろしくお願いします。」
克徳は東大寺の名前の重さを感じていた。東大寺家のものであると言うだけで、大手企業が20そこそこの小娘を重役待遇すると言う。それは歌陽子が持って生まれた力なのだ。
しかし、当の歌陽子はその力を知ってか知らずか、あえてそんな力が使えない場所に身を置こうとしている。
東大寺家の名前ではなく、素の自分で勝負しようとしている。
我が娘ながら、見上げたものだ。
克徳は、そう我が子を認めざるを得なかった。
(#76に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#74
カントリー・パーティ
環木森一郎は、東大寺老人と一緒に現れた若い女性のことをよく知っていた。
面識はなかった。
だが、一年近く毎日寮で間近に見ていた。
「あれ、あのメガネの女の子、どこかで会った気がするけど?遼子さんとも知り合いのようだし、前の塾生?」
「それにしては年が若いだろ?」
「あ、思い出した。寮で廊下や食堂に飾ってある写真の子だ。」
「私、師匠の家でも見たわよ。」
そんな塾生たちの会話に気づいて、遼子は皆に歌陽子の素性を明かした。
「みんな、この人はね、ここのお屋敷のお嬢さんなの。」
ここの、お嬢さん・・・?
と言うことは、
「師匠、この人は師匠のお孫さんなんですか?」
森一郎は、先代老人に聞いた。
先代老人は、数歩歩いて、光の輪の中に入ると照れ臭そうに、また自慢げな顔で言った。
「ああ、わしの孫の歌陽子じゃ。」
その時、遼子は歌陽子の寒そうな首筋に気づいて、自分のマフラーを外すと、そっと歌陽子の首に巻いた。
「あ、遼子さん、ありがとうございます。」
「いいえ、師匠の大事な孫娘さんですもの。風邪でもひいたらたいへん。」
「でも、遼子さんこそ、風邪をひかないですか?」
「何言ってるの、しばらく会わないうちにまた私は逞しくなったんだから。風邪なんかひくものですか。ふふふ。」
「遼子さんらしい。うふふ。」
森一郎はしばらく、遼子に愛くるしい笑顔を向けている歌陽子に見惚れていた。
「どうじゃ、うちの孫は可愛いじゃろ。」
「し、師匠。別にそんなんじゃ。」
先代老人にいきなり話を振られて、森一郎は慌てた。
「ただ、師匠に似て、変わった子だなと思って。」
「ん?何を照れとる。わしはの、お前さんが時々、歌陽子の写真に見惚れておったのを知っとるんじゃ。」
そう決めつけられて、返ってムキになる森一郎。
「バ、馬鹿なこと言わないでください。こんなお屋敷に住んでいて、お金のかかりそうな女の子なんて僕は御免ですよ!」
「ま、それはそうじゃの。」
意外にあっさりと老人は引き下がった。
それに肩透かしを食らいながら、森一郎は会話を続けた。
「でも、変わってると思ったのは本当です。だって、都会の真ん中の、こんな屋敷の中から作業着で現れるなんて普通じゃありません。」
「それは勘違いじゃ。今日は特別に歌陽子に野良着を着せとるんじゃよ。なぜなら、野良着は今日のカントリー・パーティのユニフォームじゃからの。」
「確かに、今日のカントリー・パーティに、僕らは作業着のまま参加するよう聞いてはいますが、その理由を教えてください。」
「それは少し説明不足じゃったかの。おい、歌陽子。ちょっとこっちへ来てくれんか。」
先代老人は、歌陽子を近くに招いた。
「はい、おじい様。」
森一郎は、近くに来た歌陽子に少しだけドギマギした。
「のお、歌陽子。お前、田舎では、どんな時に食べるものが一番うまかったかの?」
それに対し、顔をいっぱいの笑顔でほころばせた歌陽子は、迷いなく答えた。
「おじい様、それは農作業のお昼に、畦に腰掛けて食べたおにぎりです。」
「そうか、他には。」
「ハウスで収穫している時に、そのままもいで食べたトマトです。」
「そうじゃろな。」
確かに、森一郎はそれには異存がない。
大地の恵みをいっぱいに受けた豊かな味わいと、新鮮で身のいっぱい詰まった食感はいままで都会で味わったことのないものだった。
しかし、それ以上に労働の後の火照った身体を優しく撫でる田舎の風が、食べ物をより美味しく感じさせるのだ。
先代老人は、森一郎の方を向くと、
「森一郎、お前さんにも覚えがあるじゃろ。田舎の風と匂いの中で味わう料理が一番なんじゃ。だから、少しでも田舎を感じて貰えるように、普段のままのわしらでもてなすのよ。わかるかな?」
「はい、なんとなく。」
「歌陽子はどうじゃ?」
「わかる気がします。」
「ほっほ、まあ、そんなところじゃろ。」
そう老人は愉快そうに笑った。
(#75に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#73
写真のきみ
賀茂川遼子と東大寺家のコック長が、東大寺家先代老人を見送った後、コックの一人が部屋へ報告に訪れた。
「コック長、こちらは準備が終わりました。」
「よし、分かった。では遼子さん、私はこれから自分の仕事に戻ります。」
「ですね。では、私も塾生たちを集めます。」
そして、コック長は部屋を出て、厨房車に乗り込むと、米の炊き加減や食材の仕込み具合を一つ一つ確認した。
そばでは、東大寺家付きのもう一名のコックと、近隣のレストランから手配した料理人数名が指示を待っていた。
「よし、いいだろう。では打ち合わせ通りにたのむ。」
「はい。しかし、まるで田舎の弁当屋ですね。私たちが料理の腕を振るうところが、あまりありません。」
「まあ、そう言うな。先代のお話では、手を加えないところが良いのだそうだ。人手を加えない作物本来の味を、最低限の味付けで味わって貰うのが、今回のミソなんだそうだよ。」
「味噌と言えば、こんな粒の荒い味噌は初めて見ました。大豆が原形のまま残っています。」
「いや、本来田舎で作る豆味噌とはこう言うもんだ。そのまま味噌汁を作ったら、汁椀の中に大豆がゴロゴロしてしまう。だから、我々が卸して貰う味噌は、すぐに使えるようにペースト状の部分だけを抜き取ってあるんだ。
どうだ、少し味を見てみるか?」
「はい。・・・、うっ、かなり癖がありますね。味噌麹の匂いがそのままと言うか、味噌樽の香りがうつっていると言うか・・・、でも、大豆そのままのとても深い味がします。」
「まあ、食べ慣れないときついかも知れんが、そこは料理人の工夫一つだよ。風味を殺さないよう癖を抑えるには、どんな食材と組み合わせたらいいかだな。」
コック長が、厨房車で田舎料理の談義に花を咲かせている時、中庭の芝生の上では、遼子が塾生たちを集めていた。
「みんな、寒くない?」
「大丈夫ですよ。この間、流し場でたくさん大根の泥を洗い流しましたけど、あの時の水の冷たさに比べたら大したことありません。」
「そう、そう。」
「作業着の下にカイロは入ってるわね。もうすぐ本番よ。みんな、しっかりね。」
「ういっす。」
「だけどさあ、農園じゃ思わなかったけど、俺ら、こんなきれいなお屋敷の中じゃ、まるで泥の塊だな。」
塾生たちが、互いの格好を見ながら、品評を始めた。
「みんな、よく日に焼けてるよね。」
「健康の証拠。」
「そう言えば、君も明るくなった気がするよ。なんか、屈託がなくなったと言うか。」
「やっぱり食べているものがいいのかな。」
「だけど、こんなきれいなお屋敷なら、もうちょっと身綺麗にして来たかったなあ。これじゃあ、『さっきまで畑で働いてました』って、そのままだもん。」
「師匠は、絶対に泥を落としてはダメと言ってたわよ。役のつもりになれって。」
「役も何も、僕らそのまま百姓だろ?」
その時、トラックから照射されている光の外から声が聞こえた。
「遼子さん!」
それは先代老人に手を引かれた歌陽子であった。
「あ、カヨちゃん!」
「遼子さんも変わりないですか?」
「カヨちゃんこそ、すっかり大人びて。あ、でも、カヨちゃん、今日で21だもんね。あたり前か。」
光の輪の中で、遼子との久しぶりの邂逅を喜ぶ歌陽子。
少し離れて立っていた環木森一郎は、いきなり現れたメガネの女性にハッとした。
初対面なのに、懐かしいような、焦れるような憧れの気持ち。
普通そうに見えて、どこか手が届きがたい感じの女の子、・・・そう、あの写真の女の子だ!
(#74に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#72
屋敷の市場
明けて一月、早々に先代当主、東大寺正徳は村から東大寺本家に向けて出発した。
あとの塾生たちは、三が日が明けた4日から準備を始めた。
去年採れた新米に、農園で作った味噌や漬物や梅干し、ハウスで採れた野菜や、季節の野菜、農場で飼育している鶏が生んだ新鮮な卵、そして若鶏の肉。農園特製の粗挽きソーセージやサラミ。新鮮な牛乳に、チーズやバター。
丹精を込めて育てた新鮮な大地の恵みを一杯に積み込んで、6日の早朝、移動式厨房車を先頭に食のキャラバンは出発した。
途中、漁港に立ち寄り、新鮮な魚や海苔を仕入れ、昼の2時ごろには東大寺家の門の前に至った。
門の前では、「間も無く到着する」と連絡を受けた東大寺老人が待っていた。
家人に気づかれぬように門を開け、数台のトラックは中庭へと静かに誘導された。
中庭の刈り込んだ芝の上、家人の居室からはよく見えるが、屋敷のホールからは死角になる場所、そこに目立たないようにトラックを止め、指示があるまで待った。
1時間強が過ぎ、屋敷からコックたちがやってきた。
そこで生ものを積載している保冷車以外は、一斉に荷台の翼を広げた。
荷台を解放して、中身をさらけ出したトラックからはとりどりの食材の色があふれ出した。
それは、まるで日の陰り始めた屋敷の庭に、いきなり市場が現れたような光景であった。
今回の遠出には、塾生たちのまとめ役として、賀茂川遼子が同行していた。
東大寺老人と、遼子、そして東大寺家のコック長は屋敷の一室に入り、これからの手筈について打ち合わせを行った。
コック長は、東大寺家に勤めて30年になる。つまり、克徳や志鶴より先代との付き合いが長い。だから、東大寺老人に持ちかけられると、今の当主を差し置いても話に乗ってしまう。もちろん、先代なら決して間違ったことはしないと信頼しているからでもあった。
彼らが打ち合わせをしている間にも、他のコックや塾生たちは手筈通りに準備を進めていた。
米と水を厨房車に運び込んで飯を炊く支度をしたり、コックから渡されたレシピを見て食材を集めたり、コックはその食材で料理の下ごしらえをしたりした。
やがて、時刻も午後5時に近くなった頃、
「師匠、本当にカヨちゃんを連れ出すんですか?」
東大寺老人に遼子が聞いた。
遼子は、農繁期によく先代の農園を手伝いに来ていた歌陽子と面識があるのだ。
「何か不都合でもあるかの?」
「それは、今日の主役ですから、誕生会に本人を連れ出したりしたらもめません?」
「それは、もめるじゃろうな。」
「そうです。ただでさえ、奥向きを取り仕切っておいでの志鶴奥様の目を盗んでコックを全員連れ出しているのです。これ以上あまり波風は立てられない方が良いかと。」
東大寺老人に自ら協力をしているコック長も、歌陽子については難色を示した。
「それは無理じゃ。わしの頭の中では歌陽子の参加は絶対じゃ。わしらだけで、ワーッとやったところで締まりがつきはせん。何をおいても、今日の主役である歌陽子が先頭に立って動くからこそ、これは東大寺挙げてやっておるとみなが納得するのじゃろう?」
「ですが、もうパーティー会場におられる歌陽子お嬢様をどうやって連れ出すんですか?」
「知れたことじゃ、わしが行って手を引っ張ってくる。」
「しかし、それは旦那様や奥様が決してお許しにはならないでしょう。」
「なんの、昨日わしは歌陽子に、パーティーが始まったら気分が悪くなったフリをするように言い含めておいた。ホールから出て休んでいるところをそのまま連れてくるのじゃ。」
「そんなに、うまくいくでしょうか?」
「カヨちゃん、忙しくて忘れてしまっているかも知れませんよ。」
「ん?まあ、その時はその時のことじゃよ。力づくでもさらってくれば良いのじゃ。」
「また、大旦那様。」
「すまん、冗談じゃ。じゃあ、日もすっかり落ちたし、行ってくるかの。じゃあ、後の準備もぬかり無くの。」
「はい、お任せください。」
東大寺老人は薄汚れた袋を一つ手に下げて、トラックを降りて行った。
そして周知の如く、その頃歌陽子はパーティ会場ではなく、自室で休んでいた。
それは、歌陽子の意思でも、東大寺老人の指示によるものでもなかった。
パーティー直前にあまりに多くのことがあり過ぎて、ショックのあまり本当に気分が悪くなった所為なのであった。
(#73に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#71
移動式厨房
世間でゴールデンウィークと言われるこの時期、東大寺農業ファームは田植の佳境であった。
一口に田んぼと言っても、東大寺農業ファームでは、周囲の農家からの借り上げ分を含めて百反以上を所有している。
それに一斉に水を張り、田植え機を入れて青苗を植えるのだ。
農業ファームの社員20名以上が総出になり、農業塾の塾生たちは彼らのサポートに回った。
社員と言っても、もとは近隣の農家であったり、吸収された農業法人の社員たちである。そのため、地元出身の農業経験者が多く、また世間の定年齢に近い社員が殆どだった。そこに、一度に10数人若い仲間が加わったのだ。
農業ファームの現場は華やいだ雰囲気となり、今年の田植はいつもに増して活気があった。
器用な塾生の中には大型の田植え機を任されるものもいたし、またそれ以外の塾生も青苗の運搬や水の見回り、崩れた畔の補修に飛び回った。
最初は慣れない農作業で、都会育ちの彼らの身体は悲鳴をあげた。朝が異常に早いのもこたえた。女性の塾生の中には人知れず涙を流すものもいたが、それでも誰一人としてここを離れようとするものはいなかった。都会からの難民の彼らにとっては、ここは最後の居場所だったのだ。
その日、環木森一郎は、東大寺老人の農園の手伝いに当たっていた。
農業の専門家でもない、もと経済界の大御所が、自分の農園で講義をすると言う。しかも、口では言わない、見て覚えろと言う。
どんな講義になるかを誰もが訝った。そして老人は、ただ塾生の近況を聞いたり、当たり障りのない世間話をするだけだった。
農業技術は代表の押井から学べた。東大寺農業ファームの社長も兼務の押井は、当然塾生たちに付ききりと言う訳にはいかなかったが、そこは先輩塾生の賀茂川遼子や一緒に働いている農業ファームの社員がフォローしてくれる。
だから、農業のイロハで東大寺老人から学ぶことは何もなかった。
だが、塾生たちは老人の農園に一様に感銘を受けた。
それは丹精という言葉に尽きた。
老人の農園は決して広くはなかったが、そこで育っている野菜や果樹には、彼が込めている丹精の細やかさを感じられた。
どの葉も、どの茎も伸びやかで、自然の恵みを享受していた。野菜や果実本来の力が引き出され、香りも高く滋味も深かった。
日頃、農業ファームの野菜に親しんでいる塾生も、老人の野菜を口にするたびに目を開かれる思いがする。
土の力を知り、それを最大限引き出している農業人が東大寺家先代老人その人だった。
「どうかな、みんな元気でやっているかな?」
「はい、おかげさまで。」
「そろそろ、都会が恋しうならんか?」
「さあ、そんな毒気はかなり抜けた気がします。」
「ほっほ、毒気とは面白いの。」
いつものように、老人の仕事を手伝いながら、森一郎は他愛のない会話をする。
「ところで、師匠。」
「なんじゃな?」
「あんなトラック、前からありましたか?」
東大寺老人の庭には数台の中型トラックが置かれていた。
「ああ、あれは昨日ディーラーが運んで来たのじゃ。雨ざらしは良くないのじゃが、置き場所が決まるまで置いてあるのじゃ。」
「今度はトラックで直接野菜の配送をするのですか?」
「いや、ありゃ、わしの道楽じゃ。まあ、見てみるがよいの。」
そう言って、老人は一旦母屋に姿を消した。そして、トラックのキーが一つにまとめられた鍵束を持ち帰ると、その中の目立つ赤いボタンをトラックの一台に向けて押した。
ガクンとトラックは鈍い振動音を立て、やがて荷台の屋根を真ん中で割って羽のように広げ始めた。
「へえ、ガルウィングですね。」
青年らしく森一郎は、勇壮なトラックの羽ばたきに心惹かれたようだった。
そして羽根が半分以上上がり、トラックの中が見えた時、森一郎は素直に驚きを口にした。
「し、師匠、これってキッチンですよね。それもかなり本格的な。」
「そうじゃよ、あとのトラックに農園で採れたての野菜や米を積み込んで、日本中どこでも出掛けるんじゃ。人が集まるところへ行って、このトラックで農園の野菜を調理して食べてもらうんじゃ。」
「移動レストランですか?」
「まあの。わしはのお、医療の世界でビジネスに長く関わってきたんじゃが、やはりこの歳になって土の力の凄さに気づかされたんじゃよ。土の力が宿った野菜には、やはり力がある。それを一番いい形で味わって貰えれば、食べたもんにも力が宿る。それを一人でも多くの人に体験して貰う。そうしたら、日本人の農、ひいては食に対する考え方も変わるじゃろうて。
ほっほ、気持ちをつかむには、まず胃袋をつかめ。心を満たすには、まず腹を満せと言ったところかの。
いずれわしらの活動が身を結べは、日本人の身も心も満たされて、もっと住みやすい世の中が来るじゃろ。
もっとも、わしはもう老い先短い身じゃから、あとはあんたらが引き継ぐんじゃよ。」
圧倒されたように聞いていた森一郎はやがて口を開いた。
「師匠は、どうもスケールが違うから、とても僕では想像が追いつきません。でも、すごくいいと思います。」
「まあ、年寄りの暇つぶしで終わるかも知れんがの。まずは、今年の秋、収穫が済んだころからボチボチ動かし始める。そして、本番は、来年明けてすぐじゃ。」
「来年に何があるのですか?」
「ん?まあ、偉そうな顔をした連中がたくさん集まるのよ。そこに、このトラックで乗り込むんじゃ。
名付けて、『東大寺式移動厨房』じゃよ。』
(#72に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#70
新たな居場所
「実は、僕らは全員、彷徨い人なのです。」
「彷徨い人?はあ、またそれは随分詩的な言い方だな。」
環木森一郎の言葉に、押井がぼそりと呟いた。
「すいません。つい、悪い癖が出て。前はよく戯曲を書いていたものですから。」
「戯曲って、あのよく舞台で使う台本のことね。」
賀茂川遼子が森一郎に尋ねた。
「あなた、劇団にでもいたの?」
「いたと言うか、演劇好きが集まって自然発生的にできた劇団です。言い出しっぺは僕でしたから、一応僕が代表でした。」
「へえ。」
「その時世話になった人がいて、僕らの稽古場と溜まり場を兼ねた場所を安く提供してくれたんです。そこを中心に集まった仲間が僕ら劇団のメンバーでした。」
「ほう、そうかの。まさか、ここにいる連中がみな、あんたの劇団員とか言わんじゃろうな。」
「いえ、そのまさかです。今回お世話になった塾生は、みな、もと僕らの劇団員たちです。」
「なるほど、さすがに気心が知れあっているわけじゃ。じゃが、ここは農業を学ぶ場所じゃよ。劇団員はお門違いじゃろう。」
「はい、申し訳ありません。ですが、こちらにお世話になる以上は、農業にも一生懸命取り組むつもりです。」
「なるほどのお。もう一ついいかな?」
「はい。」
「もとの劇団はどうしたんじゃ?」
「実は、僕らの拠点にしていた、古くなったダンスホールなんですが、オーナーが先ごろ亡くなりまして、もう借りられなくなったんです。それで、拠点がなくなった僕らは劇団を続けられなくなりました。」
「それなら、もといた場所に戻るのが普通じゃろう。」
「はい、そのつもりでした。でも、僕らには他に行き場のない仲間が何人もいたのです。」
「どう言うことじゃ?」
「はい、田舎から出て都会で過ごすうちに家族と断絶した人がいます。ひきこもりで家族に愛想をつかされて帰る家を失った人もいます。会社からリストラされた人、ひどいいじめで人間不審になった人。親から捨てられて施設で育った人。みんな都会で居場所失って僕らのところにやって来ました。僕は彼らを見捨てられなかった。」
「まるで都会の難民ね。」
「はあ、どうも、生きづらい世の中ですな。」
情にほだされやすい押井が漏らす。
「じゃから、みんなで居場所を求めてここにきたのじゃな。しかし、ここは難民受入所ではないのじゃがのう。」
「でも、師匠、どんな動機であるにせよ、ここを必要としている人たちなのは間違いないと思います。」
遼子の言葉に、森一郎は手を腿の上に揃え、居住まいを正して続けた。
「僕らはいい加減な気持ちで来てはいません。
僕らはせっかく縁があって、仲間になったんです。これからもずっと一緒に生きて行こうと決めたんです。それには、みんながまた一緒に働ける村の生活が一番だと考えました。」
「そうか。」
先代老人は、一言言った。
いつの間にか、塾生たちは黙りこくっていた。いつかは言わなくてはならないことだった。しかし、森一郎はあえて今晩口にした。
都会で居場所をなくした男女が集団で流れてきたのだ。
まともな神経ならば、気味悪がって当然である。
「のお。」
先代老人は、傍の連れ合いの喜代に向かっで言った。
「ばあさんはどう思う?」
喜代は、先ほどからの笑顔を変えずに穏やかな声で言った。
「あなたたち、劇団はもうやめてしまったの?」
「え?いえ、こちらにお世話になる以上、まずは農業に専念するつもりです。朝にサークル活動とか口にしたのは軽率でした。済みません。」
「まあ、もったいない。私、お芝居好きなのに。」
「え?」
「せっかくだから、こちらでも続けたらいいわ。もちろん、忙しい時は無理だけど、昔の人は農閑期に集まって芸能を楽しんだと言うじゃない。あなたたちがそうしてくれたら、村が賑やかになるもの。」
「まあ、そう言うことじゃ。こちらは、受け取っておる履歴書の中身をちゃんと確認しておるから、なんも心配しとらんよ。むしろ、ここがあんたらの新しい居場所になれば嬉しい限りじゃ。」
その時、森一郎は深々と頭を下げ、礼を言った。
「あ、有難うございます!」
そして、森一郎が発した言葉に呼応して周り中から、声が上がった。
「有難うございます!」
「有難うございます!」
喜代が嬉しそうに口元をほころばせながら言った。
「良かったですねえ、おじいさん。みなさん、しっかりした方ばかりで。」
「わしの目に狂いはないじゃろ?ばあさん。」
(#71に続く)