成長とは、考え方×情熱×能力#83
女子の一念
「のお、高松の。歌陽子の好きにさせてくれんか?」
「え・・・、しかし。」
祐一が躊躇したその一瞬、手の力が緩んだ隙に、彼から自分の肩をもぎり取ると、歌陽子は拳を固めてオリヴァーに向かっていった。
「お主ら、手出しは無用じゃ!」
東大寺老人から、ピシリと声が飛ぶ。
「師匠!」
「ですが・・・。」
「歌陽子自身にやらせるんじゃ。」
窓ぎわから、ずいと上体を起こしたオリヴァーは、頭一つ分歌陽子より背が高かった。
見下ろされながらも、歌陽子はオリヴァーの胸板めがけて拳を振り下ろした。
だが、拳が届く前にハッシと手首を押さえられてしまった。
「マサノリ、これはどう言うことですか?僕はこれから皆さんと仲良くしたいのですよ。」
オリヴァーが言う。
「何を言っとる。さんざん悪さして、歌陽子を怒らせたのは、あんたじゃろ。自分が蒔いた種は自分で刈り取るか良いわ。」
歌陽子は自由の効くもう一方の腕でオリヴァーの顔を殴りつけようと、拳を無茶苦茶に振り回した。
それを器用によけながら、オリヴァーは、
「マサノリ、少々手荒なことをしても知りませんよ。」
「師匠!」
たまらず声を上げる森一郎。
挙句に、
「ねえちゃん、恥ずかしいことは止めろよ。」
傍観を決め込んでいた宙まで、堪えきれずに輪に加わった。
しかし、老人は、
「わしは知らん。どうとでも好きにするが良い。もし、あんたが歌陽子を張り飛ばしても、この場限りで収めておくから、好きほどやり合うが良いわ。」
「師匠、無茶苦茶ですよ。」
「そうです。マサノリ、無茶苦茶です。カヨコ、いい子だからヤメナサイ。」
「あんたをぶん殴るまでは許さない!」
歌陽子の顔つきが少々変わってきた。
目をぎらつかせ、歯を食いしばって息が上がっている。
オリヴァーは、そんな歌陽子を扱いかねて、空いている方の手で、彼女の額を軽く小突いた。と同時に、掴んでいた手首を離すと、歌陽子は反動で2、3歩よろけて、そのまま無様に尻餅をついた。
「ほ、やりおったわ。」
「ねえちゃん。だから、やめとけって言ったのに。」
オリヴァーは、東大寺老人を気遣わしげに見て言った。
「マサノリ、約束ですよ。歌陽子を殴り倒しても、僕にはオトガメナシですよね。」
「分かっとるわい。じゃが、歌陽子もこれじゃ収まりがつかんじゃろ。もちっと、相手をせえ。」
見れば、歌陽子はもう立ち上がって、胸の前に拳を固め、ファイティングポーズを取っている。やがて、彼らの周りには騒乱に惹かれて人垣が出来始めた。
「マサノリ、もうやめないですか?」
「あまり、乗り気でないようじゃな。じゃあ、こうするかの。オリヴァー、もしあんたがもう一度でも歌陽子を転がすことができたら、あんたの嫁にくれてやる。シンガポールでも、どこでも勝手に連れていくが良い。」
「師匠!本気ですか!」
「そりゃ、あまりに無茶だろ。」
森一郎に続いて、人だかりからも声が飛んだ。
「じゃがの、もし転がるのがあんたの方だったら、もう二度と歌陽子には手を出してはならんぞ。良いかな。」
「ブシニ、ニゴンハ、ナイですね。」
「無論じゃ。」
「ならば、もう手加減はしませんよ。歌陽子、歯が折れるかも知れないから、デンティスト、予約してください。」
「余計なお世話よ!」
そして、オリヴァーも胸の前で拳を構えた。
どうやら、東大寺老人の話にかなり本気になったようだった。
オリヴァーと対峙する歌陽子、キッと彼を睨んで肘を引いて身体をねじった。そして、小さな拳に体重を乗せてオリヴァーに殴りかかった。
人垣からは、そのたびに、
「ああっ」とか「おおっ」とか声が漏れた。
しかし、完全に父親と幼い娘の喧嘩である。
それくらい二人には体格差があった。
歌陽子の渾身・・・のはずの一撃も、上体だけで難なくかわされてしまう。
オリヴァーはかわしながら、ジャブを出して、軽く歌陽子の額や、顎の先を小突いた。
その軽いパンチにすら、彼女は後ろへよろめいた。しかし、決して無様に尻餅をついたりはしない。何しろ、この勝負には彼女の一生がかかっているのだ。
だが、歌陽子の形相が必死になるほど、動きに無駄が多くなり、パンチも大振りになってきた。
そして、完全に息が上がって、段々苦しそうな表情に変わり始めた。
完全にワンサイドゲームである。
なぜ、東大寺老人が、こんな無謀なゲームを始めたか、その場に居合わせた誰もが訝った。これでは、歌陽子はまるでオリヴァーに捧げられた人身御供ではないか。
「カヨコ、ダイジョウブですか?もう、僕の勝ちにしてやめませんか?」
「う・・・、ハアハア、うるさあい、ハアハア。」
「僕が勝ったら、君を今晩にでも僕のスイートに招待しますよ。」
「や、やかましい、ハアハア、このヘンタイ!」
「ヘンタイ?このアジアで僕にそんなことを言ったのは、カヨコ、君が始めてだ、よっ!」
そう言って、少し力をこめたパンチを下から上に放って、歌陽子のみぞおちに食い込ませた。
「ん!グッ!」
お腹を抑え、上体を折り曲げてうずくまる歌陽子。だか、決して膝は折らない。
「ガンバリますね。でも、さっさと終わらせましょうよ。これ以上、苦しむところ見たくないです。」
言葉は優しいが、少し残酷なゲームを楽しむ表情が現れていた。
そして、歌陽子に顔を寄せて、彼女にしか聞こえないように言った。
「それにあまり今テイコウすると、僕、君のことひどくイジメてしまうかも知れません。」
もはや勝利を確信し、オリヴァーは手中の獲物の料理法を漏らした。
さっと、青ざめる歌陽子。
その歌陽子の額を小突いて、2、3歩下がらせると、オリヴァーは二人の間に間合いを取った。
そして、これでもう終わりだとばかり、上から叩きつけるように重いバンチを放った。
この瞬間まで、人垣の誰もが床に這いつくばる歌陽子を想像した。中には短い声を上げるものも何人かいた。
しかし、宙が、
「あ、オリヴァー気をつけて!」と言った。
その声が届かないうちに、歌陽子は体を交わして、目の前を通り過ぎていくオリヴァーの手首を取った。
そして、小柄な身体を回転させ、その運動エネルギーをオリヴァーの身体に連動させた。
その瞬間、オリヴァーの身体は前のめりに宙に舞い、さらに一回転して背中から床に落ちた。
「い、一本!」
思わず、対決を見ていた誰かから声が上がった。
(#84に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#82
男たちの事情
「森一郎。」
「は、はい。」
「おそらく、お前さんの気持ちが三人のうちで一番純粋じゃろな。それは、歌陽子が何者か知らん頃から、ずっと惚れておったわけじゃからの。」
「師匠・・・。」
歌陽子にとって、森一郎は初対面である。だから、いきなり、「ずっと好きでした」と言われても、彼の気持ちを受け止めることはとてもできない。
「じゃが、相手が悪い。とても、お前さんの手の届く相手ではない。
そんなところじゃろうて。」
森一郎は、少し不満げに返した。
「師匠、それはさっきもお伝えしました。所詮僕とは住んでいる世界が違い過ぎますし、経済的に満足させる自信もありません。
だから、これからは自重します。」
「まあ、焦らんで良い。お前さん方は、農業塾の塾生で、いわばこのわしの後継者じゃ。その意味では、東大寺一族と深い縁を結んどる。じゃから、双方に異存さえなければ、歌陽子を嫁に欲しいと言っても、わしは構わんと思っとる。」
「え・・・。」
森一郎は思わず息を飲んだ。
「じゃがの、森一郎。お前さん、歌陽子のどこに惚れた?」
「そ、それは・・・。」
「じゃろうな。写真に写っている歌陽子が可愛かったから、とか、せいぜいそんなとこじゃろ。」
「・・・。」
「結局、お前さんはよくも知りもせんで、見た目だけで好いたはれた、と言っておるに過ぎないんじゃよ。」
「いや・・・、その、とても気持ちが優しそうな人だから。」
「それは勘違いじゃ。お前さんも歌陽子のメガネに騙されておるんじゃ。男は何かと言うと、メガネの女性に真面目とか、おとなしいと言うイメージを重ねよる。
じゃが、お主、歌陽子のことを深窓の令嬢とか言っておったらしいが、実際は就職先の会社の社長と一悶着起こしている豪傑じゃぞ。」
森一郎は俄かに信じがたい表情をしながらも、
「え・・・、まさか。」
「ちょっと、おじい様、人聞きの悪いこと言わないで下さい!」
(うわあ、お弟子さん、引いてる。)
「か、カヨちゃん、ホント?」
(ああ、祐一さんまで引いてる。)
少し引きつった笑顔を浮かべた祐一。
「本当じゃとも。みんな歌陽子の親父が話しておったわ。」
「そ、それは、ただ社長にプレゼンしたかっただけなんです。ホントです。
そしたら、お父様が絡んで来て、あっと言う間に大ごとになって。」
「克徳が言うには、やつも歌陽子に乗せられた、と言うておったぞ。」
「叔父様を手玉に・・・、す、凄い。」
「もう、祐一さん、やめて!本気にしないで!」
「ほっほっほ、どうじゃ、お主ら分かったか。歌陽子の彼氏は、うぬらではとうてい器量不足じゃよ。」
「おじい様!」
「各々、器量を磨いて出直して来なされ。」
(もう、さっきまで、か弱いおなごとか、言ってたくせに。)
少しうなだれ気味の森一郎と祐一。
そこへ、
「ですが・・・、僕ならカヨコに相応しい。」
また、オリヴァーが急に話に割って入った。
「お主じゃな、オリヴァーとやらは。」
「はい、トウダイジマサノリに名前を覚えて貰えました。光栄です。」
「さっきから、さんざん歌陽子に手を出しておるようじゃが、わしが見過ごしにすると思うてか。その気になれば、うぬの会社なぞ、きれいさっぱり消し去るのは容易いのじゃぞ。」
ゴクリとオリヴァーの喉が鳴った気がした。
しかし、彼は笑顔を崩さなかった。
「マサノリ、それはジュウジュウ承知です。でも、コケツニイラズンバ、コジヲエズです。
遊びもデンジャラスなほど楽しい。」
「遊び・・・、遊びなんですか?」
歌陽子はキッとオリヴァーを睨んだ。
「それは言葉のアヤです。悪くとらないでください。僕は純粋にカヨコを愛しています。」
「わ、私、あなたみたいな不真面目な人は嫌いです。」
「でも、君は僕のキスで身も心もとろけて、失神したじゃないか。」
その一言に頭に血が上った歌陽子は、反射的に椅子から立ち上がるとグーを固めてオリヴァーに殴りかかろうとした。
瞬間的に、祐一が歌陽子の肩を掴んで押しとどめた。
「暴力はいけないよ、カヨちゃん。」
「だって!だって!」
祐一に押しとどめられながら、なおも収まらない歌陽子。
「おおこわい!虫も殺さない顔をして、カヨコはケッコウ気が強い。」
「ふざけるなあ!」
歌陽子はすっかり涙目である。しかし、なおも必死で祐一手をを振り切ろうと必死で身体を揺すった。
一方、森一郎は、この歌陽子にこんな激しい一面があるのか、とスッカリ気を飲まれていた。
そこへ、今まで黙って聞いていた東大寺老人が静かに言った。
「のお、高松の、歌陽子の好きにさせてやってくれんか。」
(#83に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#81
先代裁く
「あ、じいちゃん。」
そこに、ふらりと姿を見せた先代老人に宙が声を上げた。
「こりゃ、お主ら何しとる。」
歌陽子の祖父の登場に、三人の男性の顔に緊張感が走った。
「あ、師匠。それは、この男が・・・。」
「お前さんが大きな声を上げとったから、だいたいは分かっとる。それより・・・。」
「イ、イテテテ!」
森一郎は、歌陽子の肩を抱いてオリヴァーから奪還した。しかし、そのまま抱きしめていた彼の手を先代がつねり上げた。
「いつまで、わしの孫の肩を抱いとるんじゃ。」
慌てて歌陽子から手を離しながら、
「し、師匠、ひどいです。まるで、僕が歌陽子さんに悪さしていたみたいじゃないですか。」
東大寺老人は、いつもの飄々とした感じを潜めて、厳しい顔をして言った。
「お主ら、相手はか弱いおなごじゃぞ。大の男が三人も集まって、何をめいめい勝手に自分の都合を押し付けとるんじゃ。」
「そ、そんな、東大寺のおじい様、僕は彼女を助けようと思って。」
「そうです、師匠。何も恥ずるようなことはしていません。」
先代は黙ったまま、いたたまれない様子の歌陽子を招き寄せると椅子を勧めた。
「歌陽子。」
「は、はい。おじい様。」
「しんどいじゃろうが、もう少し付き合ってくれんか。わしが今からこの馬鹿者どもに良く言って聞かせるからの。」
「分かりました。」
そうして、東大寺老人は三人の男を見回した。
「まず、高山の小せがれ。あんたじゃ。」
「僕ですか?」
「あんた、なぜ、わざわざこの場で自分のことをフィアンセなどと言ったりするんじゃ。その話は、もう過去の話じゃろう。それとも、まだ、歌陽子に思いを残しとるんか?」
「そ、それは・・・。」
「無理に答えんでもええ。あんたも、歌陽子も、家のために自然な恋愛感情が縛られるのは間違いじゃ。そう思って、あんたの親父さんも、わしらも一旦は決めたいいなづけを解消したんじゃ。
とは言え、あんたはいざ知らず、歌陽子には多少あんたに気持ちが残っておる気がする。」
「お、おじい様、それは・・・。私の子供時代の一方的な気持ちです。それに、私は・・・祐一さんに釣り合いません。」
そう言って歌陽子は顔を赤らめて下を向いた。
「歌陽子、お前さん、忘れとるんじゃないか?」
「え、何を?」
「お前は、好むと好まざると、この東大寺家の名前を背負っとるんじゃ。だから、自分をそんなに安売りされては困るんじゃよ。
祐一さん、あんた、この歌陽子がそう言う相手だと理解しておるかの?」
「・・・、申し訳ありません。」
「だから、一度いいなづけになったからと言って、それを安易に振り回されては歌陽子が迷惑する。もしじゃ、あんたが本気で歌陽子のことを嫁に迎えたいと思うんなら、それに相応しい男かどうかは、あんた自身が証明して見せることじゃ。良いかな?」
「はい、肝に銘じます。」
「歌陽子、お前もじゃ。いたずらに感情に引きずられたり、自分を卑下したりしてはならん。お前は、東大寺家の大切な令嬢なんじゃ。そのことを忘れんようにな。」
「おじい様、分かりました。」
「うむ・・・、さて、森一郎、今度はお前さんじゃ。」
「は、はい、師匠。」
分を弁えよ、と叱られるのか。
そう想像して森一郎は緊張した。
(#82に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#80
モテ期?
(歌陽子の独白)
頭がくらくらした。
私は、男の人に今日の今日まで抱きつかれたり、ましてやキスなんかされたこともない。
それなのに、いきなり現れた見も知らぬ男性に抱きしめられた。
一瞬何が起きたか分からなかった。
「早く歌陽子さまから離れなさい!」
由香里さんの声が遠くから聞こえた。
そうしたら、急に男の人の力が抜け、私は立っていられなくなって、そのままずるずると座り込んでしまった。
彼、オリヴァーは、「ソーリー、ソーリー」と、「ギュッとハグするはフレンドリの心」とか言って、手を伸ばしてきた。
思い出したら、彼の厚かましさに腹が立ってきた。オリヴァーは確かにきれいな顔立ちだけど、こんな無遠慮な人は余り好きになれない。
そうしたら、今度は私の写真を見せびらかして、「東洋のルビーね」とか言うし、お父様に向かって、私をお嫁に欲しいとか言うし。
モーッ!一体何様?
彼は三葉ロボテクの、そう一中小企業の小さなロボットコンテストを手伝いにわざわざシンガポールから来たと言う。
そんな優秀な人が一体何の目的があって、得にもならないことをしようとするのかしら?
でも、と言うことは、2月半ばまで日本に止まるってこと?
ひょっとしたら、家に泊まるかも。
えーっ、と言うことは、これから毎日顔を見るの?
そうしたら、希美さんが、「あまり近づかない方がよろしくてよ」とアドバイスをくれた。有名なモデルさんとおつきあいして、しかも次々と相手を変えているプレイボーイだとか。
少しばかり頭がよくて、二枚目なのは認めるけど、どうしてそんな自分だけを見てくれない浮気な人を好きになれるの?
自分だけ特別に愛されると思うのかしら?
でも、安希子さんには「まともに恋愛なんかしたこともない小娘が生意気言うんじゃない」と怒られるかも知れない。
取り敢えず、頭を切り替えて、おじい様の仕事を手伝うことにしたんだけど、そうしたら、またオリヴァーに呼び出された。
私にお茶を持ってこいですって。
すっかり友だち気分なの?
だけど、安希子さんにウンザリして、今ここから離れられるなら、悪魔の誘いにだって乗ってかまわないと思った。
そして、安希子さんの所から逃げ出して、オリヴァーの所に向かったけれど、私、なんて浅はかだったのかしら。
これ以上関わりになってはいけなかったのに。
オリヴァーは、窓際でタブレットに向かって何かを打ち込んでいた。
「あ、ねえちゃん」
宙が先に気がついた。
でもオリヴァーにはあまり近づかないよう気をつけて、お団子とお茶だけを置いてさっと逃げ出そうとしたら、「プリティジャパニーズガール」とか言われて、もの凄く笑いかけてくるんだもの。
「もっと近くへ」と言われて、つい一歩近づいたら、また「もっと近くへ」。あと一歩だけのつもりが、いきなり手を引っ張っられて、気がつけば頰に口づけをされていた。
なんてことするの!
私、今日の今日まで、こんなこと男の人からされたことなかったのに!
頭がくらくらして、後ろに倒れそうになったところを、またオリヴァーに抱きとめられた。
あ、近くにオリヴァーの顔がある。
何?
オリヴァーの今の笑い方嫌い。
勝ち誇ったような、お前なんかもう俺の手の内だ、みたいな征服者のような笑い方。
あ、今度は正面から顔を寄せてきた。
お願い、やめてえ!
必死に目を閉じた私の身体が、急に後ろに引っ張られた。驚いて目を開くと、あっけに取られたオリヴァーの顔が少し遠くに見えた。
「歌陽子さんにおかしなことをするな!」
物凄く大きな声がした。
気がつけば、私はオリヴァーの手の中から、その人の腕の中に奪還されていた。
「この人は、僕の師匠の大切なお孫さんなんだ。指一本触るんじゃない!」
そうか、この人、おじい様のお弟子さんの農業塾の人だ。助けに来てくれたんだ。
「ソーリー。だけど、日本のサムライは気が短いね。お茶のお礼に軽くキスをしただけじゃないか。」
うそ、絶対、さっき唇を合わせるつもりだった。
「あなたには、その程度のことかも知れないが、この人はそう言う女性じゃないんだ。温室の花みたいに大事に育てられてきたんだ。乱暴に扱ったら折れちゃうだろ!」
いえ、本当はかなり雑に扱われていますけど。
「ボウイ、確かにそうかも知れないが、温室の中しか知らない花は、本当の香りを放つチャンスもなく枯れるだけだろ。君はカヨコの本当のミリョクに気がついていない。僕なら、それが出来る。」
いらないお世話よ。
「僕がそんなことは許さない。世間知らずでも、深窓の令嬢だっていいだろ。僕はこの人の静かで穏やかな、そんな人生を守ってみせる。」
え!この人もなんか重い。
少し沈黙のまま、睨み合う二人のところへ、また新たな声が飛び込んで来た。
「え、どうした。カヨちゃん、大丈夫?」
あ、祐一さん。
騒ぎを聞いて駆けつけてくれたんだ。
「あなた・・・、歌陽子さんの知り合いですか?」
オリヴァーを意識してか、少し硬い声のお弟子さんが聞いた。
「僕ですか?僕は、歌陽子さんのフィアンセです。」
ギョッとした感じのオリヴァーとお弟子さん。
祐一さん、それはかなり前の話でしょ。
「ただ、もと、ですけど。でも、彼女にその意思があればいつでも、フィアンセに戻るつもりです。」
祐一さん・・・。
なぜ今そんなややこしいこと言い出すんですか?
だけど、ひょっとして、私にとっては人生最大のモテ期?
ただ、この三人の突っ走り系男子にぜんぜん気持ちが追い付かない。
いったい何考えてるのかしら?
(#81に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#79
彼女を想う男たち
「あんたあ、ちょっと、聞いてんの!」
「え、あ、はい。」
(ついに、『あんた』ですか。お母様に言いつけてやろうか。でも、安希子さんって、そんな分別もない人だったかな?)
そう訝って、安希子の頬を見るとほんのり赤い。
(あ、こっそりお酒飲んでる。私、こんな虎を相手にしてたんだ。)
だんだんきつくなる安希子の言葉に、これがいつまで続くのかと、歌陽子は心底うんざりし始めた。
学友たちは、学友たちで集まって楽しそうに歓談しているし、農業塾の塾生たちは次の料理の準備にホールからさっと姿を消した。克徳や志鶴たち大人はすっかり大人同士の会話に夢中だった。まるで、今日の主役が歌陽子であることなど忘れてしまったかのように。
「だいたい、あのオリヴァーっていうのは何ですか?いきなり、旦那様に向かってお嫁にください、なんて。」
「ですよねえ、人を馬鹿にしてますよね。」
なんとか話を合わせようと必死に頑張る歌陽子。
だが、
「馬鹿にしているのは、あんただよ!」
「え?なんて?」
「オリヴァーが惚れたのはね、あんたにじゃなくて、きれいにドレスを着付けた私の技術になんだ。だから、私にこそプロポーズするのが筋ってもんじゃないか。え!」
(無茶苦茶だあ。)
「なのに、ちょっといいとこのお嬢様に生まれたからって、いいとこ全部持っていくなんて許せない。」
その時、ゴロリと音を立てて安希子の足元から洋酒の瓶が転がった。
結構、度数の高いお酒だ。
気を鎮めるために厨房で一口飲んだら、きっと止まらなくなったんだろう。
それで空き瓶が見つからないように、隠そうと持ち出したに違いない。
(この人、キッチンドランカーの素質あるかも。)
それにしても、度数の高い洋酒を一本空けながら、ほとんど顔にでない安希子の酒豪っぷりには恐れいる。
ちょうど、そこへ先ほどオリヴァー・チャンと会話した女子がやってきた。
「あ、あのお。」
「は、はい。」
「歌陽子さんですよね。」
「そうです。」
「あの、向こうで、外国の方に頼まれたんですけど。」
「ひょっとして・・・、オリヴァーって人?」
「オリヴァー・・・。」
それに、安希子が反応した。
しまった、と悔やみながら、
「あはは、外国人なんて今じゃ普通ですもんね」とごまかす。
「さあ、その人かどうか分かりませんが、そばに中学生くらいの男の子がいました。」
(宙だわ。やっぱりオリヴァー。)
しかし、そんなことはおくびにも出さず、
「きっと、弟の友達のお父さんです。ちょっと、行って来ます。その間、その人の面倒をお願いします。」
「はい。お茶が欲しいと言っていましたけど。」
「はあい。」
そして、なんとか安希子を任せて逃げ出せると、いそいそとその場を離れようとする歌陽子に、
「こらあ、どこへ行く!」と安希子の声が追いかけて来た。
「あ、安希子さん、ごめんなさ〜い」と後も見ずに逃げ出す歌陽子。
やがて、ホールでは第二幕が始まっていた。
ホールの照明は、赤から黄色に変わっていた。スポットも桃色に変わり、桜舞い散る川面を数艘の小舟が行き交う影絵が映し出された。
伴奏はピアノに交代し、滝廉太郎の『花』の演奏が始まった。
♫春のうららの隅田川
のぼりくだりの 船人が
櫂のしづくも 花と散る
ながめを何に たとふべき
例によって口ずさむ人が何人もいる。
そこで、料理も春らしくと行きたいが、残念ながら今は真冬である。
ところが、招待客には、大きな朴葉に乗せられた三色団子とお茶が振る舞われた。
団子は桃、黄、緑の三色で、いつもの団子と思って頬張った客たちの顔に驚きの表情が広がった。
団子の味が、桃、黄、緑で際立って違うのだ。団子の甘さでもない、少し塩気があったり、酸味があったり。
「そうか、分かった。」
招待客の一人が声を上げた。
「桃色団子はトマトだよ。黄色はさつまいも、緑はセロリなんだ。甘くないから不思議な感じだけど、ほこほこしていたり、さっばりしていたり、そう冬野菜団子だよ。」
それを切った青竹に注いだほうじ茶で味わう。青竹の匂いとほうじ茶の苦味が良いバランスを保ち、スキッとした味わいが心地良かった。
「料理にはの、味わい深さや歯触りの良さ、それに喉越しや舌触りなどの食感があるじゃろ?じゃが、食べて見て『心地よい』と言う食感もあって良いと思うのじゃ。」
「なるほど、さすが前代表のされることには一つ一つ深い含蓄がありますなあ。」
いつのまにやら、先代老人の周りには馴染みの経営者や各界の名士たちが集まっており、彼らを相手に料理談義が始まった。
彼らは、みな先代の老人との顔なじみで、今までの行き過ぎた誕生会にも付き合わされて来た面々でもあった。
その中の一人が先代老人に聞いた。
「今回の趣向は今までと比べれば随分おとなしく感じますが、味わいはずっと深いですな。ですが、なぜ料理を配っているのが、みな作業着姿の若者たちなのですか?」
「まあ、その、ほっほ、わしのこだわりじゃよ。気分だけでも、田舎の畔道で握り飯を頬張る感じを味わって欲しいのじゃよ。」
「なるほど、田舎の感じですねえ。しかし、私ら全員蝶ネクタイですし、真冬の最中にそこまで狙い通り参りますかな?」
「まだ仕掛けは序の口じゃよ。ほっほっほ。」
その先代老人に付き添って料理を配っていた環木森一郎は、三色団子と青竹のお茶を持ってオリヴァー・チャンに近づいていく歌陽子に気がついた。
前は、いきなり抱きしめられた。
今度も何をして来るか分からない。
だから、少し腰が引けながら歌陽子はオリヴァーに声をかけた。
「あ、あのオリヴァーさん。お団子とお茶です。ここに置いておきますからね。」
その声に、タブレットに向かって一心にチャットをしていたオリヴァーが振り返った。
そこには、小柄で、細身で、なんの飾り気もない作業着姿の歌陽子が立っていた。畑からそのまま来たような麦わら帽子のメガネ娘。
安希子の言うことが本当なら、こんな素のままの自分にオリヴァーは少しの興味も示さないはずだ。
しかし、オリヴァーは、見る見る顔中を笑顔で崩して、
「エクセレント!パーフェクト!プリティジャパニーズガール!」と言った。
「なんて可愛いんだ、カヨコ。お願いだ、もう少し近くに来てよく見せてくれないか。」
口先だけ、とは思ったが、そう言われて決して悪い気はしない。
それで、少しこわばった笑顔を浮かべながら、一歩近づいた。
そうしたら、
「もう少し。」
それで、また一歩近づくと、
「もう少し。」
まるで『赤ずきんちゃん』に出て来る、お婆さんに化けた狼のようだと思った。そう、十分近づいたところを頭から丸呑みされるのだ。
と、思った次の瞬間、歌陽子は強く手を引かれて、いつの間にかオリヴァーの腕の中に身体を預けていた。
オリヴァーは笑顔だった。それこそ、とろけるくらい甘い。
そして、顔を寄せて来た。
丸呑みする為に?
だが、彼がしたのは、歌陽子の頬への軽いキスだった。
オリヴァーはまた、軽い挨拶としらばくれるかも知れないが、歌陽子には大ショックであった。思わず頭がポーッとなって後ろに倒れそうになるところを、オリヴァーのたくましい腕が抱きとめた。
それをたまたま見ていた森一郎は、全身の毛がそそけ立つような思いがした。
「なんてことをするんだ!」
そして、若い怒りが彼を二人の元へと走らせずにおかなかった。
(#80に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#78
オリヴァー再び
「パーティジャックって、そんな・・・、だいたいこれは私の誕生会なんですし。」
「違います!」
「え?」
「だ〜んじて、違います!」
無茶苦茶だ、と歌陽子は思った。パーティが無茶苦茶になって頭に来たのは分かるけど、あくまで今日の主役は自分な訳だし、多少は主役を立てるくらいはしても良さそうなものである。
「お嬢様はとんでもない考え違いをしておいでです。」
(勘違いって何?何言ってんの?)
「だいたいお嬢様のような小娘のために、旦那様や奥様がどうして毎年大金を使わなければならないんですか?いいですか?お嬢様の誕生日に使っているお金があれば、メイドの2人は雇えるんですよ。2人ですよ。そうしたら、私の仕事がどれほど楽になることか。」
(そっちですか・・・。)
「それでも、毎年お嬢様の誕生日をきっちりとされるのは、他に大きな理由があってのことです。」
「り、理由って何ですか?」
「お嬢様の誕生日と言うのは、みな様が集まる口実に過ぎません。年の初めの顔合わせを兼ねて、日頃お世話になっているみな様へ感謝の気持ちを込めておもてなしをする日じゃありませんか。だから、旦那様も奥様も、毎年それこそ気を使われて、招待客はどうする、料理はどうだ、歌陽子をきちんとさせなさい、って・・・。
ああ、それにしても、なんでも歌陽子、歌陽子って、ああ憎たらしい。」
「ちょ、ちょっと、安希子さん・・・、こわい。」
歌陽子に対する感情をむき出しにして、飛びかかってきそうな安希子に、彼女は恐れをなして数歩後ずさった。
「そこまで、ご両親に気を使わせて、お嬢様は一体何をしているのですか?
せっかく良い留学先まで決めて貰いながら、直前でだだをこねて台無しにするわ。一緒に留学できなかった桜井様と松浦様のお嬢様方が残念がられて、とても気の毒でなりませんでしたわ。
それでも、旦那様は一緒懸命お嬢様のご希望を叶えようと奔走され、今の会社に課長待遇で就職できるよう取計らってくださいました。
そうしたら、何ですか。今度は不良老人たちを手下にして、ハリウッド帰りのクリエイターと逢引きするわ、シンガポールのイケメンをたらしこむわ。破廉恥にもほどがあります。」
歌陽子に言わせれば、それこそ物凄い脳内変換であったが、あえてそれは言わなかった。
少しばかり胃が痛くなっても、まずは安希子に不満を吐き出させてクールダウンさせなければ・・・。
「あげくに、このたびのこと、旦那様も奥様も、コックもメイドもみなお嬢様のためを思えば、何日も前から詰めて準備をしていましたのに、それを自らぶち壊しておしまいになって、あまつさえ、シンガポールのイケメン男にプロポーズまでされて。」
(・・・、それはもういいって。)
とにかく、今は吐き出したいだけ出させよう、そう歌陽子は思った。
ちなみに、当のシンガポールのイケメン男こと、オリヴァー・チャンはその頃何をしていたかと言えば、窓際に座りこんで持参したタブレットで自分の会社とチャットをしていた。部下に業務指示でもしているのか、パーティに出席している時すら片時も仕事から離れない、根っからのビジネスマンである。
その隣では、やはりパーティに馴染めない宙が、オリヴァーの横に腰掛けてつまらなそうに足をブラブラさせていた。
そこへ、農業塾の女子が声をかけた。
「あの、おむすびはいかがですか?」
「おむすびなんかいらないよ。」
宙はすげなく返した。
しかし、オリヴァーは、
「ソラ、こんなプリティなレディに冷たくしてはいけない。有り難うオジョウサン。」とニッコリ笑って竹皮の包みを受け取った。
その笑顔に彼女は、たちまち顔を赤らめて慌ててその場を去ろうとした。
「あ、待ってオジョウサン。あの、君に頼みがあるんだ。」
「え・・・、はい。」
(こんな素敵な男性にお願いをされるなんて。)
「日本のお茶をワンカップ欲しいんだ。」
「は、はい!」
急いでお茶を受け取りに走ろうとした女子を、しかしオリヴァーは呼び止めた。
「あ、そうじゃないんだ。カヨコに持ってきて貰いたいんだよ。」
「え・・・、歌陽子さんですか?は、はい、わかりました。」
少し残念そうな女子を尻目に、オリヴァーはまたタブレットに向かうのであった。
(#79に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#77
パーティジャック
「これは、これは、前代表。」
ふらりと畑の野菜を見回るような風体で姿を現したのは、先代の東大寺正徳老人であった。
「松木さん、久しぶりじゃの。元気でやっておるか。」
「あいも変わらずです。前代表こそ、お元気そうで。」
「この歳で元気でなかったら、もう死んどるわい。」
「いつもながら、辛辣で。」
二人の掛け合いに、克徳が割って入った。
「お父さん、またこれは何を始められたのですか?」
「なんじゃ、志鶴さんから聞いてはおらんのか?」
「一応、カントリーパーティとだけ聞きましたが、それだけでは皆目分かりません。歌陽子もコックも連れ出してしまわれるし、その分気を揉まなくてはならない私や志鶴の身にもなってください。」
「まあ、すまんとは思うが、いつものことだし、もう慣れっこじゃろ。」
「お父さん!」
「じゃが、周りを見てみるが良い。お客さん方、みんな満足そうじゃろ。」
少し明かりを落として、夕焼けを演出した会場に目を凝らすと、あちらこちらで竹皮のおむすびを配っている作業着姿の若者たちが見受けられた。作業着と言っても、統一されているわけでなく、めいめい農場での服装そのままを身につけていた。ジーンズの上下つなぎの女子もいれば、漁夫のように黒シャツ一枚にタオルでハチマキを巻いている男子もいる。
ただ、共通していることは、彼らの衣類が何度も洗濯をして色がはげかけていることと、泥のついた長靴を履いていること。まさに、農作業をしているところから、そのままやって来たような風体であった。
竹皮を受け取った招待客たちは、お腹が空いていることもあって、一様にすぐに包みを開くと中のおむすびを頬張った。
すると、どの顔にも称賛が浮かび、パッと表情を明るくした。そして、一口、また一口と竹皮に二つ包んであったおむすびをたちまち平らげてしまった。
向こうには、おむすびの美味しさに頰を押さえながら笑顔をいっぱいにほころばせている桜井希美と松浦由香里の姿が見える。そして、彼女たちを囲んで数人の青年が二人の可愛らしい笑顔にみとれていた。その中に、町屋青年や由香里の想い人の高松祐一もいた。
由香里は祐一から時折笑いかけられる度に、恥じらいを隠せないように可愛らしい仕草をした。それが、周りの幾人かの男子の恋心をますます燃え上がらせたのは想像に難くない。
「あなた。」
さっきから、しおらしく克徳のそばに控えていた志鶴が軽く克徳の袖を引いた。
「これでは、安希子さんが可哀想ですわ。」
「ん?」
見ると、安希子はホールの隅に座り込んで、すごい目つきで農業青年団の跳梁跋扈を睨みつけている。きれいに清掃し、ブラシをかけて、愛撫するようにメンテナンスしたホールの絨毯が泥付きの長靴に蹂躙される様が耐えられないのだ。
本来の仕事も農業青年団に奪われ、彼らが絨毯に泥を落とす度に、身をかきむしられるようにビクッ、ビクッと身体を震わせていた。
一方、先代老人の登場で話の輪から外れかけて、すっかり安心していた歌陽子は、急に悪寒を覚えて、そっとその場を離れようとした。
しかし、それを鋭く見とがめた志鶴が、尖った声で歌陽子を呼び止めた。
「歌陽子、あなた、どこへ行くの?」
「え、あはは、その他のお客様の接待をしないと。」
作り笑いで、なんとかその場を逃れようとする歌陽子を、しかし志鶴は逃さなかった。
「もう、そんな格好でふらふらしないで頂戴。それより、あなた、安希子さんに何か言って来て。」
「え?私が、その、安希子さんに?」
「そうよ、安希子さんがあんなに機嫌を損ねているのも、元はといえば、あなたの蒔いた種だもの。キチンと謝ってらっしゃい。」
(あの安希子さん、相当タチが悪そう。)
恐れていた通りの展開に、なんとか助け舟を出して貰おうと、先代老人の方をチラチラと見るのだが、老人は松木会長との会話に熱中していて一向に振り向いてもくれない。
ついには、
「歌陽子、早くなさい!」と志鶴に厳しい声でせかされて、渋々歌陽子は安希子のもとに向かった。
まずは視界に入らないように横に周りこんで、そろそろと近づく。それにしても、凄い負のオーラだ。ここだけ、人が近寄れなくて丸く空白地帯が出来ている。
やがて手の届く範囲まで近づいたけれど、安希子に反応は全くない。気づいているのか、いないのか。知っていて、敢えて無視をしているのか。
ついには、意を決して、
「安希子さん」と声をかけた。
すると、それに初めて首を回して、
「あ、お嬢様」と感情のない低い声を返した。それは歌陽子を腰砕けにするに十分な威圧感だった。
そして、ひるんだ歌陽子に追い打ちをかけるように、
「お嬢様は、ひどいパーティジャックですわ」と忌々しげに吐き出した。
(#78に続く)