今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

誕生日は無常の近づく日

(写真:桜町宵の口 その4)

門松や

『門松や 冥土の旅の一里塚
めでたくもあり、めでたくもなし』
かの禅僧一休の歌です。
一休さんは、とんちの得意なクリクリ坊主のイメージが定着していますが、本当は奇行の人物で知られ、歯に絹着せぬかなり口の悪い人物だったようです。
その彼が詠んだのが、冒頭に紹介した歌です。
「門松」と言えば新年を言祝いで玄関に飾るものです。ですから、みんなめでたいものだと思っています。
しかし、門松を立てるのは、一年が確実に過ぎ去ったと言うことですし、それだけ、私たちの寿命は確実に縮んでいます。
嫌な墓場に入る日にだんだんと近づいているから、「門松は冥土の旅の一里塚」と言われるのです。
「そんな冥土の旅の一里塚を見て、めでたいと喜んでいて良いのだろうか」
一休はそう私たちを皮肉るのですが、また彼の言っているのは紛れもない事実です。

めでたいとは、このことじゃ

正月になり、顔さえ見れば「おめでとう」「おめでとう」と言いあっています。
今年も新しい歳があけてめでたい。
そんな気分が満ちている中、一人の異様な格好をした人物が新年を言祝いでいる往来の中を歩いてきます。
真っ黒な衣に、頭には傘をかぶり、手には杖を持ち、「ご用心、ご用心」と呼び歩いています。
それは、かの奇行人一休です。
なあんだ、僧侶の一休か、ならば真っ黒な衣に傘も普通のいでたちではないか、と思えますが、異様なのは、その手に持った杖の先に人間の髑髏を乗せていたからです。
髑髏の乗った杖をつきながら、「ご用心、ご用心」と、めでたいめでたいと言い交わしている往来を歩いて行く一休はさながら狂人のようです。
みんな、「一休め、気でも触れたか」と、薄気味悪がって離れていきます。
しかし、その中に気の強い人がいて、一休に食ってかかりました。
「こら、坊主。このめでたい場所でなんてものを見せて回ってるんや!」
そう聞いた一休、ジロリと睨み返して、「何!めでたいとな?めでたいとはこれじゃ!」
そう言ってズイと髑髏を突き出しました。

取り返しのつかない財産

これは、めでたいはめでたいでも、「目出たい」です。
つまり、髑髏は目が腐って飛び出してしまっているので、「目出たい」なのです。
一休は、正月に浮かれる街で、髑髏を見せて「ご用心、ご用心」と呼びながら、いずれ迎えなくてはならない終末の日を警告して歩いていたのです。
最近でも、誕生日には、たくさんの人から「お誕生日おめでとうございます」と言われます。
この歳になると、さすがに自分の年齢を数えたくなくて、敢えて無視をしているところがありますが、さすがにこの日ばかりは思い出します。
そして、一年あっと言う間だったな、としみじみとします。
確かに、「おめでとう」と言って貰えるのは嬉しいのですが、それだけ「冥土の旅の一里塚」を越えている訳ですから、少々複雑な気持ちです。
そして、過ごしてしまった一年は、決して取り返しがつきません。
例えばお金なら、失うことはたいへんでも頑張ればいくらでも取り返しが効きます。
健康も取り返しが効かないと言われますが、また健康に戻ることはあります。
しかし、それら私たちの財産のなかで、唯一特殊なのは私たちの命の時間です。
こればかりは、どんなに頑張っても、また増やす訳にはいかないのです。

悔いのない人生

その命を使って私たちはいろいろなものを手にいれます。
「死を前にしたとき、惨めな気持ちで
人生を振り返らなくてはならないとしたら、いやな出来事や逃したチャンス、やり残したことばかりを思い出すとしたら、それはとても不幸なことだと思うの。」と言ったオードリー・ヘップバーン。
彼女は映画界に燦然たる足跡を残しました。
彼女は命を支払って何を手にしたのでしょう。
それは、名声と地位と、大きな財産でした。
それを手にしたら、果たして命の重さと釣り合うのでしょうか。
そして、彼女は自分の言葉通り満足して人生を終えられたのでしょうか。
そのように人生をかけて残したものは、最後命と見合っているかが問われます。
命をかけるに相応しいものだったら満足し、相応しくなければ後悔をするのでしょう。
しかし、夏目漱石ほどの人物が臨終に「今死んでは困る」と言い残しています。
彼の小説家としての偉業も命に釣り合わなかったと言うことでしょうか。
そして、これは今も刻々と命を削られている私たちにも向けられている、実に切実な問いなのです。