今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

答えは単純

(写真:鶴舞駅)

次世代を考える

次は何が来るでしょう。
ビジネスに関わる私たちにとって、常に関心があり、また気になる話題です。
今や技術革新が市場の破壊をもたらし、今まで安泰だと思っていたビジネスが急に壊死してしまいます。
それまで仕事の効率と精度をどう高めるかが最大の関心事だったのに、パラダイムシフトを織り込んで事業モデルを考えなくてはならない時代となりました。
例えば、自動車メーカーなら、他の産業からの参入を阻んできた内燃式エンジンの技術が、電気自動車が主流になればその優位性は失われます。自動車はもはや特定事業者だけがエンジン性能を競うステージではなく、ありふれた電気部品だけで構成される家電の一つとなります。
そうすれば、日本の家電業界を追い落としたアジア勢が、やはり自動車業界も食い尽くすのかも知れません。
そのような状況の中、私たちの視線は必然的に遠くなります。

「まだ、誰も手をつけていない未来の技術をものにしたい」

私たちが急き立てられるように懐くのはそんな気持ちです。

トレンドを作る仕掛け

さらに、自動車で言えば、今の若い世代はバブルの記憶がなく、就職氷河期を経験している人たちです。潤沢なお金とは縁がなく、だから無理して車を買おうとは思いません。
むしろ、必要な時、必要なだけ車を借りるカーシェアリングの方が感覚に合っています。
そして、浮いたお金をもっと自分の好きなことに集中して使う賢い世代でもあります。
そうすると、もはや車は一人一台持ちではなく、十人一台持ちの時代が来るかも知れません。それはすなわち自動車産業の国内市場が十分の一に縮小することを意味します。
そうすると、タバコ税でタバコ消費が激減したJTが食品やその他業種に活路を求めたように、自動車業界でも大きなビジネスモデルの転換が余儀なくされるのです。
では、その答えをどこに求めたら良いのでしょう。
この頃、世の中で騒がれているものは、「AI」「IOT」「自動運転」「ドローン」等々。
最近は毎日のように経済新聞で見かけますし、また国主導の実証実験もよく聞くようになりました。
いつの間にか脳に刷り込まれたこれらのワードに加え、大手企業が相次いで参入と聞けば、レベルの違う私たちまでも必然的に関心事となります。
しかし、ある時気づきました。
国策的に流行らされたワードは、目新しさはあっても、私たちの日常の問題を解決してくれるものではありません。
つまり、国や経済紙、業界紙がやたら口にするのは、目新しさに慣れた私たちの気を引くために、10歩も20歩も先の未来を見せてようとしているのです。
だから、トレンドと言っても、発信者側の都合で、半ば扇動的に語られるものも多いのです。

答えは単純

その中、一時期騒がれたのは、「自動安全ブレーキ」と言う機能です。
つまり、自動車を運転している時に、前方不注意でブレーキをかけるのが遅れても、車が勝手に障害物を検知して止まってくれる仕組みです。
よくコマーシャルでは、壁に向かって車を走らせて、ぶつかる寸前に自動で止まると言うデモンストレーションを行っていますね。
最近はかなり精度は上がったでしょうが、当初各メーカーは開発に苦労していたようです。
なかなか商品化できず、足踏みをしている間にスポットが当たったのが、ドライバーが即座に反応して踏み込める画期的なブレーキ。
それは、機械やセンサーに頼らない、従来通りのアナログなブ足踏みブレーキでした。
しかし、私たちの正直な気持ちは、機械的に勝手に止まる車より、自分たちでより安全に停止できる車の方が欲しいのです。
決して無理に遠い未来を目指さなくても、答えは意外に単純で、近いところにあるものです。

1.5歩先を目指す

聞いてみると、お客さんはあまり進んだものより、1.5歩先くらいの新しさを好むようです。
そもそも、新しいものが世の中に定着するには、時間をかけてステップを踏む必要があります。
まず、新しいものを世の中に出しても、みんなおっかなびっくり、なかなか手に取ろうとはしません。中にはそのまま消え去るものも多数あります。
しかし、そのうち新し物好きな人が使うようになります。新し物好きは実に奇特な人で、まだ世の中で揉まれていない荒削りなものを進んで使って苦労してくれます。
そして開発元にクレームを言ったり、注文を出したりして、改善を促します。すると、だんだん製品が磨かれてきて、安心して使えるものになります。
そうして、少し先進的な層への導入が始まり、世の中に認知されていきます。
もちろん、そこまでには長い道のりがあって、世の中に認知される前に消え去るものがほとんどです。
当然、成功すれば大きな利益をもたらしますし、反対に失敗する大多数の会社はたいへんな痛手を受けます。
つまり、10歩も20歩も先の取り組みは、まだ社会的な責任の軽いスタートアップや、資金をプールして、その中で行っている大企業のR&D部門の仕事なのです。
ならば、さほど規模も大きくなく、それでもお客さんに大きな責任を負っている私たちはどう取り組むべきでしょうか。
それは、あえて視線を足元に引き戻し、1.5歩先を見た製品の開発をすることだと思います。
その方が、お客さんも利便性の把握がしやすく、投資の判断も早いでしょう。
パラダイムシフトが求められる時代だからこそ、作られたトレンドに引きずられることなく、あえて単純な答えを求めることも必要です。

すぐ作業に結びつけようとするから見えなくなる。

(写真:滋賀の夕暮れ)

命題が与えられたら

「今世の中では、AIが盛んに言われているが、それを使った事業モデルを作ってくれないか?」

例えば、そんな命題を与えられたとします。
一応、「はい」と答えはしますが、さて何をどうしますか?
困るのは、命題を与えられはするもののゴールが見えていません。
AIはよく聞きますが、そもそも何者なのでしょう。機械なのか、ハードなのか。
ネットで検索してみると、「あ、人工知能のことか」と分かります。
人工知能は、チェスや囲碁のチャンピオンを負かしたり、クイズ王に勝ったりしていますね。
だけど、どうビジネスに結びつくのでしょう。
だから、思わず聞き返したくなります。

「人工知能って買えたり、売れたりするもんなんですか?それとも僕らが作るんですか?」

すると、すぐに返ってくるのは、

「それも含めて検討をお願いしているんじゃないか。」

作業を探したがる人たち

私たちは、すぐに結果に結びつかないことをするのがとても苦手です。
会社が用意した商材を売ってナンボとか、いついつまでにこんなモノを作って欲しいとか、ゴールが見えている作業には安心して取り組むことができます。
しかし、そのゴールも含めて検討をして欲しいと言われると、とても不安です。
なぜなら、一日働けば一日分積み上がるものでないので、貢献感がありません。方向が正しいかも分からず、ひょっしたら無駄なことを繰り返して会社に損を与えているかも知れません。
上から「どう?どう?」と聞かれるたびに奥歯にものが詰まったような言い方をしなければならず、心苦しいこと一通りではありません。
そんな時、私たちが手っ取り早く安心感を得る方法があります。
それは、作業の心地良さに身を浸すことです。

作業の罠

「作業」とは、その結果を成果として積み上げることです。
例えば、毎日目の前の伝票を処理して、机の上をキレイにして帰る仕事なら、日々充実感があります。ちゃんと仕事をしている実感もありますし、給料以上に貢献できていると胸を張れる気持ちにもなります。
一日の終わりを気持ちよく迎えられますし、週末も仕事を引きずらなくて済むので安心して過ごすことができます。
また、そこまででなくても、納期が決められていて、それまでに仕上げて納めれば一応は一区切り、達成感があります。
そんな作業の達成感や貢献感を求めたくなるのも無理ありません。
そこで、取り敢えずしっかりした企画書を作ろうと作業を始めます。
まずは雛形探し。ネットで同じようなテーマのプレゼンテーションを探して下敷きにします。
あとは構成、組み立てや訴求ポイント、そしてセンテンスに使用する数字集めや画像の収集。
頑張った甲斐があって、かなりしっかりしたものが完成しました。そして、胸を張って提出、上の人の反応を待ちます。
ところが、上の反応は思わしくありません。
曰く、

「作業の罠にはまり過ぎだ。」

作業に必要なのはロジック

その「作業の罠」とは何でしょうか。
作業の罠とは、作業に没頭する私たちが、それをこなすことに満足して、すっかり何のためにそれをするのかを見失ってしまうことです。
例えば、企画書作りに没頭している時は、見た目が良く、厚みもある、そんなドキュメントを作ることばかりに頭が行っているでしょう。図やグラフを使った分かりやすい企画書なら、きっと上も褒めてくれるはず。
しかし、ネットでAIの定義をかき集めたところで、世の中の成功事例を書き連ねたところで、会社にとっての正しいAI戦略となっているかと言えば違います。
それはただ世の中の情報のインデックスを作り上げただけのことで、手段の一つを実現したに過ぎません。
もし、「AIを使った事業モデルを作ってくれ」と言う命題に答えようとしたら、AI以上に自分たちの事業領域を詳しく把握しなければなりません。そして、そのマッチングしたイメージのベースを根拠づけをするために定義や事例が必要となるのです。

このように、私たちは非常に作業を好みます。そして、作業の罠に取り込まれ易いのです。
しかし、作業の前に、ゴールはどこか、そこに至るにはどんなステップが必要か、だから、こんな作業が必要になると言うブレークダウンが必要です。
そこを忘れないよう、毎日の作業をよく振り返りたいと思います。

懲りないところが良いところ

(写真:流れ行く京都)

怒られても、怒られても

「こらあ、またお前か!ちょっと来い!」

「あ、あの、すいません。」

「すいませんじゃないだろ。この業界入って何年になるんだ?」

「え、と、あ、5年?」

「バカ!27にもなって可愛く言えば許してもらえると思うのか!」

「い、いえ、そんなつもりは・・・。」

「まあいい。それよりこの企画書は何だ?」

「あ、それ、今度こそ行けると思うんですよね。」

「どこがだ!『◯◯県の菜の花スポット10を見に行こう』なんて、菜の花なんてどこでも咲いているだろう。なんで、わざわざテレビ局が芸能人まで呼んで放送しなければならないんだ。」

「だって、菜の花きれいじゃないですか。あ、春が来たんだなあ、ってウキウキしません?それに、いくら身の回りにあるからと言っても、見渡す限り一面の菜の花畑なんて滅多にお目にかかりませんし。」

「あのな、新聞の番組欄に『◯◯市役所の一日』とか、書いてあってお前、番組録画押す?」

「え、しないです。」

「だから、おんなじなんだよ。お前の発想。」

「でも、菜の花は・・・。」

「お前の!個人的!趣味は!どうでも!いいんだ!
俺たちの仕事は数字取れてナンボだろ!
お前みたいなヤツは、一生ADをやってろ!」

学習しない動物と学習する人間

「あはは、怒られちった。」

「君も懲りないねえ。今月何回目?ちょっと企画書出すのを控えたら?」

「ダメダメ!ちゃんと企画書を出し続けないと、認められるものも認められなくなるもん。」

「だからって、このままじゃ、ますます心証悪くなるし、下手すりゃ制作局から配置換えされるかも知れないよ。」

「う〜ん、それはそうだけど。だけど、せっかくやりたかったテレビ制作の仕事ができてるし、私なりに一生懸命やるとどうしてもこうなっちゃうんだ。」

「普通怒られたらどこが悪かったか反省するとか、怒られないように考えるとかするだろ?犬とか猫なら、叩かれたらキャンとかニャーとか泣いて逃げるだけだけど、人間なら二度と怒られないように対策するだろ?」

「あのさ、私ってもしかして、学習能力欠如してる?」

「犬や猫は例えだって。そんなに言葉通りに受けとらないでくれよ。」

懲りないところが良いところ

「私ね、一応怒られたら反省はするんだよ。こう変えたらいいか、あそこを直そうとか。本当にご飯が食べられなくなったり、夜眠れなくなったり、それくらい真剣に悩むんだから。」

「へえ、はじめて聞いた。いつも色艶がいいから悩んでなんかいないのかと思ってた。」

「ま・・・ご飯が食べられないのはウソだけど、それなりに真剣に悩むんだから。」

「なら少しは自分を変えられた?」

「それがさ、今度こそはと企画を考え始めるんだけど、最後にはいつもおんなじ感じになるのよね。才能ないのかな?」

「あのさ・・・、ひょっしたら、君まっすぐなだけかもね。君の中に本当に視聴者に届けたい絵があって、どうしてもそれに嘘がつけないだけなのかも。」

「そうなのかな、不器用なだけかも知れない。」

「それとも、いくら怒られてもメゲずにやれるのはある意味才能だね。『懲りないところが良いところ』ってね。それに、最近、君の企画の隠れファンがいるって噂だよ。」

「まさかあ、だって一つも通ってないのよ。どこで見てるの?」

「さあ。でもディレクターがシュレッダーの前に積んでおくと、たまに君の企画書だけが抜き取られているそうだよ。誰かがシュレッダーをかけられる前に守ってくれてるんだよ。」

八転び九起き

「え!制作局長がお呼びなんですか?」

「ほら、言わんこっちゃない。ついに上からも来たぞ。」

「ねえ、どうしよう。」

「しょうがないだろ、腹を決めて行ってきたら。女は度胸ってね。」

・・・

「入りなさい。」

「失礼・・・します。」

「なぜ呼ばれたか分かっているかね。」

「はあ、なんとなく。」

「まあ、こっちにかけたまえ。まず、これは君の企画書だよね。」

「あ・・・その・・・そうです。と言うか、とっくにディレクターに捨てられたかと思っていました。」

「まあ、それもしょうがないだろうな。この『◯◯県の菜の花スポット10を見に行こう』じゃあね。その、もう少しタイトルをひねり給え。」

「タイトル・・・ですか。」

「そう、タイトル。」

「それって、ひょっとして内容は合格点とか?」

「ダメ!全然不合格。」

「ですよね。」

「でも、私が君を呼んだのはそんなことを言うためじゃない。」

「え?あ、それ、みんな私が出した企画書です。」

「そう、よくもよくもこんな企画書を、『ふざけるな』と言いたい。でもね、またまだ合格には程遠いけど、この半年急に内容が良くなっている。」

「あ、ありがとうございます。」

「それに、そもそも、他がやらないことだから、上手くできないのは仕方ないとも言える。あえて奇をてらわない、かと言って安直に鉄板ネタに逃げない。僕らのすぐ隣にある凄く良いものにスポットを当てようと言う視点はいいんじゃないか。」

「そう・・・そこなんです。どこか海外や国内の有名観光地にいかなくても、県内でも凄く良いスポットがあるんです。それを発見して貰いたいんです。商業化されて、どこへ行ってもおんなじで、だから意地になって有名スポットを消化する旅より、身近なローカルスポットの良さに気づいて欲しいんです。」

「そう、若い人はそれくらい元気があった方がいい。企画書はまだまだだけどね。」

「あ・・・すいません。」

「いや、期待しているよ。僕も実は君の企画書のファンなんだ。結構いつも楽しませて貰っている。」

「が、頑張ります!」

「そう、そうその意気で早く一人前になってくれ。」

買えと叫べ

(写真:南海なんば駅)

残念な営業マン

話も上手くて、スマートで、人気もあって、話題も豊富、だけれど売上は最低の営業マン、そんな人がいると言ったら信じられますか?
彼と一緒にいたら「凄いな、この人」と感心させられることばかりです。きっとお客さんも同じ感想を持っていることでしょう。
いつもお客さんから電話を受けて、嬉々として対応をしています。本当に電話を懐にしまう間がありません。
でも、お客さんに買っては貰えない。
どうしてでしょうね。
彼のどこに問題があるのでしょう。

行動を促さない人

反対に強面で、愛想もないけれど成績は良い人がいます。
その強面で押し切るから、お客さんもついついハンコをつくのでしょうか。
まさか、昔の押し売りではあるまいに。
この2人の営業マンの違いは、一言で言えば、お客さんに行動を促しているか、いないかです。
2人の営業スタイルを見てみましょう。
まず、行動を促さない残念な人。

「なかなか良さそうな商品じゃないか。」

「そうなんですよ。例えば、ここを触ってみてください。手に吸い付くようでしょ。この感触は癖になりますよ。それに、長い間使っていても疲れません。」

「なんか、ワシだけで勿体無いなあ。」

「いえ、女性の方が使っていただいても全く問題ありません。是非、奥様にも使っていただいてください。ご夫婦で同じ趣味を持たれたら夫婦仲はもっともっと円満間違いなしです。」

「う〜ん、考えてみようかな。」

「是非、お願いします。」

「家内にも相談して、気に入りそうだったら連絡するよ。」

「はい、私の名刺はこちらです。この電話番号におかけくださればすぐに伺わせていただきます。」

「じゃあ。」

「では、よろしくお願い致します。」

買えと叫べ

如何でしょうか。
おそらくこのお客さんは買わないでしょうね。
別にお客さんは冷やかしではなかったと思います。そして、店を出るときは買う気満々だったでしょう。
ところが、慎重を期して、奥さんに確認すると言いました。
様子からすると安い買い物ではないようです。それでも奥さんが喜ぶなら買おうと、帰って奥さんの気持ちを確かめたいと思ったのでしょう。
しかし、実際に商品を触って惚れ込んだ旦那さんと、その旦那さんから話を聞く奥さんでは明らかに温度差ができます。
そして、結局奥さんに気のない返事をされて、旦那さんも買う気が失せてしまうのです。

では、行動を促すタイプの場合、どう言うでしょうか。
重なる部分は省いて、途中から始めます。

「う〜ん、考えてみようかな。」

「ありがとうございます。では、早速お支払い方法についてご説明します。」

「おいおい、気が早いな。家内にも相談させてくれよ。」

「いえ、ご主人が気に入られたんですから奥様もきっと良いと言われますよ。なぜなら、ご夫婦なんですから。」

「そうだなあ。じゃあ、聞くだけ聞かせて貰おうか。」

「はい、ありがとうございます。まず、一括がご希望ですか、分割がご希望ですか。あと、お届けは平日がよいですか、休日が良いですか。」

「え?参ったなあ。そうか、いいよ。一括にしてくれ。あと、今度の日曜日に届くかな?家内をビックリさせてやるんだよ。」

「それは名案です。」

完全にお客さんは買うペースです。
特に途中、いきなり支払い方法の説明を始めています。それは言葉は違えど、強力に「買え!」とアピールしているのです。

良い人から動かす人へ

つまり、この違いです。
残念な人は、すっかり相手を買う気にさせていたのに、この「買え!」が言えませんでした。
それは、お客さんに気分を害されるのが怖かったので、言いたいことを言わず相手任せにしてしまったからです。
しかし、私たちが高い買い物のため、財布を開くときはどうでしょうか。
商品が良いことは分かっています。また、買った後のことを考えて高揚もしています。
ただ、額が額だけに後悔したくないと強く考えるのです。
いくら営業マンに勧められたからと言って、やはり判断するのは自分です。だから、「あなたは間違っていないですよ」と勇気づけて貰いたいのです。
では、それをできるのは誰でしょう。
ネットで調べるよりも、誰かの意見を聞くよりも、まずは頼りにしたいのは目の前にいる営業マンです。
なぜなら、その商品を熟知し、自信をもって勧めているのですから。

「大丈夫。後悔しませんよ。買ってください。」

そこでお客さんに遠慮は要りません。変に相手の意思を尊重する必要もありません。
自分が自信をもって勧められるのなら、「買え!」と叫んで良いのです。
そして、そのように行動を促されることを、他でもないお客さんが待っています。

本能に蓋をしろ

(写真:あさの難波)

ゼロサムゲーム

「ゼロサムゲーム」と言う言葉があります。
日本語では「総和ゼロの競争」と翻訳されます。
例えば、私がパイを一切れ持っているとします。みんなは、それが欲しくてたまらないので、なんとか手に入れようと努力します。
交渉を持ちかけたり、おだてたり、なだめたり、時には脅しをかけたり。
そうして、ついに誰かがその一切れを手に入れると、代わりに私は一切れを失います。
つまり、手に入れたプラス一切れと、失ったマイナス一切れで、全体から見れば合計はゼロだから「ゼロサムゲーム」です。
これは食べ物のみならず、ビジネスでも、ポジションでも限られたパイの奪い合いです。
例えば、数量限定スイーツ、どうしても手に入れたければ朝早くからお店の前で行列を作ります。そして、なんとかライバルを出し抜いて自分は手に入れることができましたが、中には目の前で締め切られる気の毒な人もいます。
ビジネスで、やっと買ってくれそうなお客さんと出会って喜んでいたら、「相見積を取るよ」と言われてビックリ。やっぱり自分が手に入れたい商談は皆んなも狙っている。無事受注して喜ぶこともあれば、ライバルに持って行かれることもあります。
あるいは出世競争でも、社長が100人と言う会社はありません。主任、係長、課長、部長、役員、常務、専務、社長と上に行くほど狭い門になります。やはり、ポジションも奪い合いのゼロサムゲームです。

本能の叫び

私たちは、そのように生まれた時から、競争を教え込まれ、勝つことを求められてきました。
自分以外と対する時は、必然的に対立構造ができます。すなわち、勝つか負けるかのゼロサムゲーム。
目に見えるものを奪い合うばかりではありません。相手に喋る隙を与えないくらい、口を開けば「自分」「自分」の人。また、虎視眈々と自己主張の機会を狙う人。つまり、場の主役を争ってのゼロサムゲームです。
あるいは、見栄の張り合い、自慢合戦、挙句に足の引っ張り合い。これも優越意識を奪いあっていると言えるでしょう。
このようについつい対立軸を作ってしまう私たちは、ひょっとしたら本能に動かされているかも知れません。
本能が「負けるな」「勝てなきゃ死ぬぞ」と叫ぶのです。
それは太古、高度に社会集団を形成するまでの私たちが、小グループ間で縄張りや獲物の奪い合いをしていたからです。しかも、文明が形成される数千年前まで何百万年も続けてきたことなのです。
縄張りを奪われたら自分や家族が飢えなくてはなりません。そのため、常に他者との関わり合いは争いや奪い合いでした。
そして、その記憶はこの文明社会の私たちのDNAにも深く刻まれているのかも知れません。

本能に蓋をしろ

しかし、現代を生きる私たちに、本能が命じるままに争いや奪い合いをすることが必要なのでしょうか。
協調や他を活かす考え方は、文明が生み出した人類の資産です。
小さなコミュニティが集まり村となり、村が集まり部族となり、部族が集まり国となります。それは強大な外敵に対抗するために協調し、力を合わせて、自たちが強くなる必要があったからです。
その国同士がぶつかった最たるものが二度の世界大戦であり、その悲惨な記憶に反省した人類は全体での協調の道を探りました。
そして、紆余曲折はありますが、人類は善意に基づいた世界作りを模索しています。
その証拠がグローバル化、お互い国の門戸を開いて人やものを受け入れています。そこにテロリストが紛れ込んでいると疑ったら、とても出来はしないでしょう。
あるいは、拡大するネット社会。無防備に個人情報を晒せるのは、漠然とネットの運営会社やコミュニティの善意を信じているからです。
また、広がるシェアリングエコノミーも、例えば見も知らぬ人を家に泊めたり、泊めてもらったりする民泊は善意の人同士でしか成立しません。
このように、現代は急速にお互いの善意をもとにした社会へと進んでいます。
この時代では、太古の本能に蓋をしなければならないのかも知れません。

人間は生かし生かされる

このところ、世間を騒がせていると言えば、アメリカのトランプ大統領です。
大統領選の頃から過激発言を繰り返し、果ては「メキシコ国境に壁を作る」と言い出しました。
「何を言ってるんだ」「いや、選挙だけのパフォーマンスだろう」「就任すればまともになるさ」と世間は考えていました。
しかし、実際に就任してからの言動は、メキシコに工場を作っている会社を非難し、メキシコとアメリカの間に国境税を導入しようと画策しています。
つまり、メキシコの安い人件費で作ったものがアメリカに流入し、アメリカの雇用や国内産業を圧迫しているから、自国の保護のためにやろうとしているのです。
いかにもビジネスマンらしいとも言えますが、私から見ればトランプ大統領は勝ち負けしか考えていないゼロサムゲームの申し子に思えます。
政治や、ビジネスにおいても、時にはまずは自分から負けに行く、つまり「サービスが先、利益は後」的な相手を生かす姿勢が求められます。
それをなんでも勝ちにいくと、周りとギスギスしてたいへんなことになるのではないでしょうか。
人間は生かし、生かされるものであり、私たち人類はそんな全体協調への発展途上です。
そこに入り込むノイズ、例えばテロ、ウィルスソフト、そして犯罪に負けず、真っ直ぐに進みたいものです。
そして、ゼロサムゲームを求める本能に蓋をして、勝ち負け以外の関係を個人間でも、企業間でも、国家間でも築ければどんなに良いでしょう。

持てる環境で戦う

(写真:よるの難波 その3)

その男、信繁

昨年、お茶の間を席巻したもの、リオオリンピック、アメリカ大統領選、そして「真田丸」。
主人公は、真田幸村こと、真田信繁です。しかし、中盤の関ヶ原の戦いまでは、父親の真田昌幸の方が目立っていました。
関ヶ原で豊臣方が大敗した後、真田昌幸、信繁親子は九度山に幽閉されます。
そこで、稀代の軍略家、真田昌幸は生涯を閉じ、信繁もまたひっそりと暮らすことを余儀なくされます。
一方、豊臣の遺児秀頼の大阪方と徳川家康の関東方の間が俄かに緊張し、戦が避けられない状況となります。
そして、大阪方から九度山の信繁のもとに使者が使わされます。

「真田殿のお力をもって、豊臣にお味方いただきたい」

対して、上田の戦で散々真田昌幸の軍略に煮え湯を飲まされた徳川家康は真田を警戒し、なんとしても信繁の大阪入城を阻止しようとします。

大坂冬の陣

なんとか徳川の目をかいくぐって入城を果たした信繁でしたが、まずは牢人衆の意識統一に苦労します。そのため、牢人たちの頭目格の明石、後藤、毛利、長宗我部ら各武将の顔を立てて、合議制で全軍をまとめようとしました。
そして、信繁が取ろうとしたのが打って出る戦略。攻め寄せる関東方に対し、地の利は完全に大阪方にあったため、信繁をして「負ける気がせぬ」と言わしめました。
もちろん諸将の意見は割れましたが、それもなんとか取りまとめ、いよいよ打って出ることに決した矢先、大阪城の堅牢さを頼みにする豊臣のお側衆が籠城戦に固執したのです。

「ならば、籠城で策を立て直すまで」

信繁はすぐに切り替えました。
城には守りが弱い部分がありました。
あくまで、籠城を行うのならばその弱い部分を補強する必要があります。
そのため出城を築いて、そこを補強し、関東方の寄せ手を跳ね返そうとしたのです。
やがて戦端は開かれました。
いわゆる大坂冬の陣です。
そして、信繁が築いた出城こそ、番組タイトルの「真田丸」でした。

持てるものでベストを尽くす

関東方が大坂城に攻め寄せます。
しかし、彼らはこの出城に散々悩まされ、長期の持久戦を覚悟しなければなりませんでした。
徳川はもともと、豊臣の家臣です。
そして、今の関東方には豊臣恩顧の大名も沢山おり、徳川について豊臣を攻めることに負い目を感じていました。しかし、時代の趨勢が徳川に移っている以上、お家存続のために徳川に従わざるを得ないのが実情だったのです。
もし、関東方が大阪城を攻めあぐねていれば、「趨勢は再び豊臣に有り」と大阪方に寝返る大名も現れかねません。
そのため、家康はなんとしても早期に決着をつけたかったのです。そして、豊臣の天守に向けて長距離砲で砲弾を打ち込みました。
これにより何人もの侍女を失った淀君は震え上がりました。
そして、信繁らの反対を押し切って、さっさと徳川と和議を決めてしまったのです。
和議が決まった以上は仕方がない。
今度はいかに和議を有利に持ち込むかが信繁の課題となります。
交渉相手はあの本多正信、あの老練な参謀に敵するものは豊臣にはいないと、信繁は秘策を考え出します。
それが、女同士の和議会談でした。

制約が知恵を生む

どんなに状況が悪くなっても、常にその状況に応じてベストの軍略を考えだす。
そんな信繁に仲間の武将がしみじみと語りかけます。

「お前、凄えなあ」

打って出る戦略を立て、それが駄目になれば籠城で勝つ秘策を練り、それが和議により続けられなくなれば、今度はその和議を少しでも有利に進むよう手を考える。
制約があれはその制約の中、常に最高の打ち手を考えるのが真田の真骨頂です。
しかし、その和議は豊臣に非常な不利な状況をもたらしました。
真田丸は打ち壊され、大阪城は外堀のみならず、内堀まで埋められてしまいます。
そして、丸裸となりもはや城の防御機能のなくなった大阪城にまた関東方が押し寄せました。
大阪夏の陣の始まりです。
圧倒的に不利な状況の中、それでも信繁は徳川の本陣に迫り、ついに家康に自害を覚悟させるまでに追い詰めます。
しかし、いくつもの歴史のいたずらが重なり、最後は家康の勝利に帰し、信繁は自刃して果てます。
しかし、その最後の最後まで、制約の中で知恵を生み、持てるもので最高の戦略を立てて勝ちを諦めませんでした。その姿が、お茶の間の私たちにも頑張る勇気を与えたのだと思います。

心の小さなエゴ

(写真:よるの難波 その2)

謹厳な武士

ある時、謹厳な武士が若党を連れて旅をしていました。
ふと気づくと一緒にいたはずの若党の姿が見当たりません。
はて、どうしたのか?と暫く足を止めて待っていると、やがて遅れて若党が駆けてきました。

「申し訳ありません。お待たせしました。」

「どうしたのか?」

「はい、実は草鞋の緒が切れて直しておりました。」

「直すのに使った藁はどうした?」

「畔のはざから抜いて参りました。」

「それは、持ち主に断ってのことか?」

「いえ、黙って抜いて参りました。しかし、誰でもしていることですし・・・。」

「ならん!他のものは良くても、わしはそんな根性は許さん。すぐに持ち主に断って参れ!」

そうして、若党を持ち主に許可を貰いに戻らせたと言います。
しかし、はざから藁を数本抜いたところで、分かるものではありません。はざに掛かっている藁束を全て持ち去った訳でなし、少々この武士は潔癖に過ぎるのではないでしょうか。

これくらいが身を滅ぼす

「これくらい」
「たいしたことない」
「誰でもやっいる」

私たちは、よく自分にそんな小さな言い訳をします。
公ものを私用で使うとか、僅かなものだからと持ち主に断らずに勝手に持ち去るとか。
私たちのそのような気持ちは小さなエゴです。
しかし、最近そんな小さな気の緩みで身を滅ぼす事例に事欠きません。
軽微なことでは、お店の電源を勝手に使っていたら、窃盗罪で書類送検されたとか。
実刑ではないにしろ、窃盗罪で前科がついてしまいます。
あるいは、お店の冷蔵ボックスに寝転んで友達に写メをしたところ、その友達が面白がって拡散。たちまち日本中の知るところとなり、店は閉店。彼はお店から損害賠償を請求され、また顔が知れ渡って社会的制裁を受けました。
これくらい、大丈夫。
誰でもやっている。
自分なら上手くやれる。
そう自惚れていた人間が運転中にゲームをしていて子供を轢き殺し、あるいは飲酒運転で他の家族の命を奪ってしまう。
もちろん、最悪そんな大変な結果になるとは分かっていたでしょう。
ただ、それが自分に起きるとは分からなかった。
「これくらい」と言う小さなエゴは、まさに破滅に導く悪魔の囁きであります。

0.99と1.01

謹厳な武士には、人間のそんな弱さと危うさが身にしみて分かっていたのだと思います。
だから、若党の「これくらい」が許せなかったのでしょう。
また、この武士の厳しい指導あればこそ、若党はこれからも道を誤らずにまっすぐ生きていけるのです。
さて、小事をついつい軽く考える私たちは、その小さな積み重ねの結果に気づいていません。
分かりやすい話をします。
例えば、人より1パーセントだけ頑張る人。1.01の努力をする人です。
対して、人より1パーセントだけサボった人。0.99の人です。
これを一年後に比べてみると、1.01の人は4.65になっています。0.99の人は-2.65です。そして、その差は7.3も開いてしまいます。
小さいからと侮れません。
今は小さな心のエゴも積み重なるとたいへんな結果を招くのです。

孝行息子のフリでも良い

では、自分のエゴに負けないためにはどうすれば良いでしょうか。
それについて、ある話が伝えられています。
ある時、水戸光圀が領地の視察に出掛けました。
水戸光圀はたいへんな親孝行で知られ、また孝行者を見ると沢山の褒美を取らせました。
それを知ったある男が、光圀一行の前に母親を背におぶって現れました。
それを見た光圀はすぐに配下に「あの者に褒美を取らせよ」と命じました。
しかし、配下は「あの者はこの辺りでは有名な親不孝ものです。褒美欲しさにあのように孝行息子のフリをしているのです。決して褒美など与えてはなりません」と注進します。
しかし、水戸光圀は「フリでも良い。今日一日だけでも良い。あのように親孝行の真似事でもするのが良いのだ」と答えたと言います。
私たちは心にエゴを抱え、いつの間にやら悪を恐れることに疎くなっています。そんな時、良い人に親近し、真似でもしていくことで自ずと正されていきます。
「善人の敵とはなるとも、悪人を友とすることなかれ」であります。
悪を好むのが私たちの本性なので、努めて悪い交わりを避け、謹厳な武士や水戸光圀のような正しい人に親近したいものです。