今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

自分が主人公(中編)

(写真:6月の芽吹)

刻まれる命

オレは、当年とって72だ。
まだ、若いって?
よしとくれ。
平均寿命って言葉を知っているか?
日本の平均寿命ほ、80.7歳。
もし仮に、80歳までが生きることが約束されている年齢だったとして、それまであとたったの8年。それ以上生きたら、おまけの人生ってことになる。
あとは、どこまでレコードを伸ばすか、役所も周りもカウントを始めやがる。
生きるってのは、そんな伊達や酔狂でやるもんじゃない。
皆んな、1日1日生命を噛み締めながら生きているんだ。それは、あんただって同じだろ。
なのに、周りから生きている長さをカウントされながら生きるってのはどうなんだ。
じゃあ、いいだろう。
あと8年と決めようじゃないか。
そうすれば、1日1日の大切さが分かろうってもんさ。
あと、7年と364日、あと7年と363日って具合にだ。
それで1日が終わるときに、今日は悔いなく生きられたか振り返ろうじゃないか。
そして、最後の1日を終わるまで、血の一滴まで絞り出すように生き切ってやる。
オレは、生命のカウントダウンを人任せなんかにしてやるものか。

消化試合

などと言っても、それば全部年寄りの強がりさ。
そもそも、一分一秒無駄にしないように気張ったら、身体と気持ちがついてこない。
そうだろ、少し一生懸命何かをすると、その倍の時間は休まなけりゃならない。そして、気がつきゃ、ボーッとして時間ばかり過ぎてる。そんなことで、この間「あけましておめでとう」なんて人の顔さえ見れば言っていたと思ったら、もう来年の年賀状の準備をしている。
これで、もう一年。
あと、8回もこれを繰り返したら時間切れなんて実に儚いもんさ。まるで今更勝つ見込みもなく、何も期待することができない消化試合をさせられているようなもんだ。
そして、この虚しい人生の幕切れに気づいちまった年寄りはひたすらゲームのリセットを願っている。
それが過去何千年も繰り返した言われたあの言葉。
「ああ、早くお迎えが来ないかのう」。
そう、オレ達があれほど尊敬し、焦がれた大先輩宮田さんすら、きけない口で毎日言っているに違いない言葉なんだ。

生きる意味

宮田さんは、オレ達が新人の頃から世話になっていた先輩で、ちょうど20こ離れている。
若くして部長を務めるほどの切れ者だったが、オレら若手をよく可愛がってくれた。
今は希少な戦争出征組の生き残りで、よくオレらに語っていた言葉が忘れられない。
「なあ、オレ達世代は、もうお前らの年齢で生き死にの自由がなかったんだぞ。女も知らない、人生の何たるかも知らないような若いヤツらがお国のためとか言う大義名分で生命を散らして行ったんだ。なあ、オレは幸いにして今こうして生きていられるが、アイツら何の為に生まれて来たのかって思うぜ。」
そして、なき戦友の人生まで背負ってよく働いていた。巷じゃ、「海洋プラント建設のパイオニア」とか言われて、最後は副社長まで務めた人だった。
しかし、宮田さんがいくら偉くなっても、オレ達との交流は絶えなかった。
年に数回は「ミヤタの会」と称し、宮田さんを中心にして、それぞれいろんな立場に出世した同僚が集まって飲んで語りあった。
いくら忙しくても宮田さんはそれに付き合ってくれたし、宮田さんが副社長を最後に引退をした後もオレ達有志で年一回の「ミヤタの会」を開いていた。
それは、とても懐かしくて楽しい集まりだったが、その宮田さんが自宅で脳梗塞に倒れ、寝たきりになってからは揃って病院に見舞いに行くのが「ミヤタの会」になっちまった。
80過ぎても髪の毛も、歯も全部残っていた若々しい宮田さん、いつまでもオレ達の良いリーダーだったのに、今は病院を見舞っても満足に口をきくこともできない。
ただ、年に一回「ミヤタの会」に顔を揃えて見舞ったオレ達を見て、うっすらと目に滲ませる。それで、「ああオレ達が分かるんだな」って思う。
でも、宮田さん、戦争に生き残ったあんただったが、散って行った戦友の分まで悔いなく生きられているのかい。
こんな人生の幕切れを喜んで受け入れているのかい。

(後編に続く)