今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

群盲象を撫す

(写真:馬場 その1)

群盲象を撫す

お釈迦様の喩えに「群盲象を撫す」と言うものがある。
ある国の王様がそれまで象と言うものを聞いたことも触ったこともない盲人たちを集め、宮廷の庭でその象を触らせてみた。
「お前たち、象とはいかなるものが、それぞれの思いを申してみよ。」
国王の問いかけに、全盲者たちは口々に自分の思いを述べた。
ある者は「大きなうちわのようなものです」と言い、ある者は「柱のようなものです」と言う。またある者は「壁のようなもの」と言い、最後のものは「箒のようなもの」と言った。
なぜ、同じ象を触りながら、みな言うことが異なったのだろう。

それぞれの触りしもの

彼らは全員、目が見えないものたちである。
だから、象とはこんな生き物で、どれくらい大きいかを知ることはできない。
唯一手で触れてみて、触った部分だけを知ることができる。
つまり、「大きなうちわ」と言った盲人は象の耳に触った人である。「柱」と言ったのは足に触った人、「壁」と言ったのは象のお腹、「箒」と言ったのは尻尾に触った人である。
そして、誰一人として象を正確に言い表した人はいなかった。目の見えない盲人たちは、自分が触って分かった部分を象の全体と思い込んでいたからである。
これは、お釈迦様が何を教えられたものだろう。

全体を見て初めて分かる

よく自分も質問を受ける。
「仏教を説いたのはお釈迦様一人なのに、どうしてこんなにたくさんの宗派があるのですか?」
確かに、日本の代表的な宗派だけでも、天台宗、真言宗、禅宗、浄土宗、そして浄土真宗と分かれており、教えの内容も著しく異なっている。
それは、お釈迦様の説法を書き残したお経が七千余巻と膨大で余程の人でなければ全巻読破してその真意を知ることはできなかったからである。
それで、とりあえず自分の機にあった部分だけを読んで、これぞ仏教なりと宣伝した宗師が何人もいた。
まるで、一部だけを触って、象の全体を分かった気になっている全盲者のようだ。
それだけ、我々人間と比べて仏意は深遠なのだとも言える。

心眼を開く

お経によらず、我々は全体を見ることをせずに、その本質を見誤っている。
例えば、この間の米大統領選が好例だと思う。
過激な発言を繰り返すトランプ候補を見て、これはとても大統領の務まる人でないと多くの人が思った。だから、次期大統領はクリントンだと考え、準備をしていた国も多かった。
しかし、おそらく我々はアメリカ社会の一部だけを見て、トランプを待ち望んでいた人たちの声に気がつかなかった。
それは、今のアメリカの政治では救済できない人たち、そして置き去られた人たちである。
現状の変化を望む大多数の社会的弱者の声が、国を動かす票となってトランプ大統領を誕生させた。
これも、自分たちの耳に届く一部発言力のある人たちだけの声を拾って、アメリカ全体が分かった気になっていたための間違いである。
これによらず、人の本当の偉さや、逆に怖さ等、目に見えている部分だけでは見誤ることが多々ある。
心眼を開いて全体を見ることができるようになれたらどんなに良いだろう。