今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

進んで後輩の踏み台となる

(写真:屋根上のゼロ その1)

命をつなぐ

自らの身体を、幼虫の最初の糧として与える虫がいると言います。
例えば、カバキコマチグモがそうです。
カバキコマチグモの母親は、100前後の卵を産み、孵化するまでそれを護ります。
その卵は10日前後で孵化し、幼虫たちは一回目の脱皮が済むと一斉に母グモに取り付いて体液を吸います。
その間、生きたまま体液を吸いとられている母グモに外敵が近寄ると、母親は自らを喰らっている子供たちを必死に護ろうとします。
そして、30分ほどで母グモは絶命し、半日で体液を吸いつくされます。
まさに、壮絶な子育てです。
やがて自分を食らう子供たちを産み、必死で育て、そして生きたまま食われながら守り抜くのです。そこまでして、命を次の世代につなぎます。
カバキコマチグモは極端な例としても、少なからず全ての生き物は自分の身を削って、次世代に命をつなぎます。
そして、それは人間も例外ではありません。

未来へのバトン

若い時は奔放な女性でも、子供ができれば自分の格好などそっちのけで子供の世話中心となります。親がやたら子供番組に詳しくなるのも、あるいはお出かけ先に遊園地やファミレスが多くなるのも、生活が子供中心になった証拠です。
少し大きくなれば、食べ盛りの子供を飢えさせまいと自分の分を削ってまで与えます。
おかしな格好をさせてはならないと、自分は穴の空いた下着を身につけても、子供の衣服にはお金を惜しみません。
そして、教育にお金がかかるようになれば、遠い将来まで借金を抱えても何とか人並みの教育を受けさせようとします。
子ゆえの闇と言いますが、中には子供のために許されないことをして、身を滅ぼした人もいます。
ヴィクトル・ユーゴーの小説「レ・ミゼラブル」の主人公ジャン・ヴァルジャンは、子供のためにたった一本のパンを盗んで19年も獄中生活を送ることになります。
カバキコマチグモのように、わずか半日で自分の体液を子等に与え尽くす訳ではありませんが、半生、もしくは一生をかけて我が身を与えているとも言えましょう。
それは、ひとえに私たち生き物が、未来に命のバトンをつなぐ定めを負っているからです。

進んで後輩の踏み台となる

これは、私たちの家庭のみならず、会社においても同じことが言えます。
つまり、会社も長く存続するためには、先輩から後輩へといろいろなものを伝えなくてはなりません。
例えば、仕組みとか、技術とか、知識とか、あるいは人脈、市場と言うものです。
しかし、同じ会社といえど我が子ならぬ後輩に全て譲り渡すのには葛藤があります。
例えば、技術。
自分が苦労して長年磨いてきた技術を、何の苦労もない後輩にそっくり渡すのは抵抗感があります。
その疑似で自分は社内の尊敬を一身に集めていたのです。そこまでには、血の滲むような努力もしました。そして、自分こそ会社にはなくてならないオンリーワンだったのに、業務命令で自分の技術を後輩に移管したところ、後輩はさも自分一人で身につけたように勘違いして、いつの間にか上から目線でしゃべりかけてくる。そして、自分の存在は社内ではスッカリ霞んでしまう。
かつての栄光が思われる分、口惜しさも倍加します。
でも、そうやって技術や知識は継承されるものなのでしょう。
我が身を削り、後進を生かす。
時に、進んで後輩の踏み台となることも必要です。

生かされた分を生かす

よく、海外で聞くことですが、それまでのカリスマ経営者が退陣した瞬間、業績がガタガタになることがあります。
そうすると、世間は前の経営者の偉大さを褒め称え、まるで伝説のように語ります。
そして、もし彼が他の企業で経営者を続けていたとしたら、彼の評価は否が応でも高まります。
しかし、彼は本当に有能な経営者だったのでしょうか。自分が退陣した後を全く考慮しなかったとしたら、経営者としての責任を十分に果たしていないことになります。
ましてや、自分の評価を高めるために、わざと後継に無能な人間を選出するケースもあるそうです。
それは、ひとえに「ミスター◯◯でなければ、やっぱりダメだ」と長く言わせたいからです。ハッキリ言って、会社のためでも、社会のためでも、後進のためでもありません。ただ、自分の虚栄心のためです。
そして・・・
自分たちもそんな心の塊です。
しかし、今の自分があるのは、かつての先輩方が自分の虚栄心に打ち勝って、自分の命である技術や知識を継承してくれたからです。
それによって生かされてきたことを思えば、自分もつまらない虚栄心や見栄や我慢に打ち勝って、後輩にも自分の命を伝えなくてはなりません。
あえて後輩の踏み台となる。
それは、自分と言う踏み台を足場に、さらに大きな未来を作ってくれると信じるからです。