今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

貧乏人結構。誰もその貧乏を盗もうとしないのだから。

(写真:水のある風景 その2)

格差社会

世界では、2割の富裕層が富の8割を所有し、残りの大多数であとの2割を分けあっていると言われます。
そして、日本にもそんな格差社会が進行しています。
少し前の統計ですが、子供の5人に1人が就学支援を受けているそうです。つまり、程度の差こそあれ、家庭が貧しく、学費はおろか、給食費や毎日の生活費にも事欠く子供がそれ位の割合で存在しているのです。
私は、地方でも割と裕福な地域にいるので、正直そこまでの実感はありません。
しかし、報道では片親の家庭が急速に増えており、その家での貧困率が非常に高いと報じられています。
あるいは、企業が人手の調整弁として非正規労働者を大量雇用し、その弊害でその雇用環境から抜け出られなくなった人がたくさんいます。その人たちは、一生懸命働いても、正社員と同じ待遇を得ることはできず、多くが低賃金に甘んじています。
かつては、一億総中流社会と言われ、夫婦を中心とした戸建てと自動車、家電に囲まれた裕福な世帯が一般的なモデルでした。
それは、高度成長期とそれに続く豊かな時代に会社勤めをしていた人にとっては、割と手に入れやすいライフスタイルでもあったのです。

悲劇を生むもの

長らくそんな時代を経験してきた私たちは、そんなライフスタイルが当たり前のものになっていました。
しかし、ここに来て、経済状況の悪化や雇用環境の変化、さらにシングルマザーの増加、親の介護で退職を余儀なくされた人たち等、これらの要因が絡まり、従来の中流社会のモデルからこぼれ落ちる人たちが出てきました。
それを称して、貧困層と言っています。
では、現代の貧困層の実態とはどのようなものでしょうか。
もちろん、貧困にもピンキリあります。中には、1日1食しか食べられない人もいれば、住む家がなく車や路上で寝泊まりしている人もいます。
それは甚だしいとしても、私の周りにいる人は、収入は少ないながらもテレビはあるし、携帯も持っている。タバコも1日一箱吸っているし、うち食ばかりではありますが惣菜中心で手間をかけずに三度食べています。それで、実入りは少なくても、最低限以上の暮らし方ができているのです。
そして、私たちと何が違うかと言えば、まず車がないので遠方まで出かけることはできません。同じく、お金のかかる旅行や遠出も無理です。また、日頃着ている服も質素で、当然アクセサリーなどは持ちません。
あと、頻繁に飲み屋で一杯とか、お金のかかる趣味もできません。
しかし、それだけです。日常の身の回りから言えば、私たちと何ら変わりがないのです。
その貧困層を定義するとき、私たちはかつての裕福な中流家庭をモデルにしてきました。
そして、このモデル以上のライフスタイルをセレブと呼び、このモデルにこぼれた人たちを貧困層と呼んでいます。
言わばこのステレオタイプの比較モデルが、貧困層を定義し、悲劇を演出しているのではないかと思います。

貧乏人結構

戦後、日本中が貧しかった頃、『貧乏』と言う言葉は存在しなかったそうです。
それは、見渡す限りのご町内、どこも同じような境遇の人ばかりで、粗末なトタン屋根の下で一家全員が暮らしていました。子供はどこの子も真っ黒に汚れたランニング一枚で、靴もはいていません。食事は、どの家庭でも狭い庭に火をおこしてアルミ鍋で煮炊きしていました。
食べるものも僅かばかりの米や雑穀、野菜くずに、卵がつけばご馳走でした。
それを隣近所で融通して肩寄せ合って生きていたのです。そこに、金持ちとか貧乏の感覚はありませんでした。
それから、日本が少しずつ復興して、持てるものと持たざるものが現れて始め、そこに貧富の感覚が生まれました。
確かに、貧困は生命や健康に影響することもありますから、決して無視して良いものではありません。しかし、貧富とはあくまでも比較相対のものです。貧困層と言うのも、過去の豊かなモデルを比較対象にしているから悲惨さが増すのかも知れません。
しかし、戦後高度成長期の豊かさを望めない今、敢えて豊かさのモデルを書き換える時期に来ているのでしょう。
例えば、『貧乏人結構』とか。

新たな処世術

昔の貧乏とは、それこそ食うや食わずを意味していました。
しかし、今日本でホームレスの人まで含めて、その境涯に陥っている人は稀で、貧乏人と言えど、必要最低限の生活はできています。
それに、テレビやスマホ、コンビニや100円ショップで、一定のお金さえ払えば趣味や娯楽、文化的な生活も満たされます。
この超デフレ社会が、価格競争を助長し、提供側に過度なコストカットを要求するから、人件費のしわ寄せを受けた人たちが貧困層と言われるのかも知れません。
ならば、毒を喰らわば皿までで、この低価格、低所得社会をトコトンまで満喫するのも現代の処世術かも知れません。
企業から十分な収入が貰えなくなったら、徹底的なコストカットの生活で防戦する。
そうしたら、企業はますます売上が減り、私たちの実入りに影響します。私たちも、自己防衛のためにもっと生活のコストを減らす。
言わば、悪循環と言うか、我慢比べですね。
でも、そんな中で私たちが得るものもあるでしょう。
それは、単一の豊かさの基準からの解放です。それは豊かさに金銭的、物質的以外にもいろんな形があることを学べる機会です。
そして、
『貧乏人結構。誰もその貧乏を盗もうとしないのだから。』
やせ我慢でなく、そう言い切れるくらい泰然自若として生きられるようになりたいものらです。