今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

応病与薬 〜100パーセントを教えようとしてはならない〜

(写真:青空カイト)

■茶碗の喩え

相手が誰であっても、正しいことならば、そのまま伝えて構わないのではないか。
そのように思いがちです。
しかし、どんなに正しくても、そのまま伝えてはならない場合があります。
それは、相手にそれを受け取るだけの力がない時です。
例えば、業務の複雑なオペレーションを伝える場合、相手に業務の基礎知識がなければ何も理解することはできません。
同じように、自分が理解した心構えや学びを伝える場合も、相手が受け取るには、それなりの人生経験や学習が必要です。
さながら、茶碗に水を注ごうとした時、茶碗がひっくり返っていたら、せっかく注いだ水がほとんど溢れてしまうようなものです。
きちんと茶碗に水を満たそうと思えば、まずは正しい向きに茶碗を据え直してから注がねばなりません。

■応病与薬

相手に応じて伝える。
それを仏教では、「応病与薬」と言います。
薬は、病の状態に応じて与えなくてはなりません。
いくら病気を一発で治す効能があるからと言って、劇薬を身体の弱った病人に与えたらどうなるでしょうか。
まず、胃が受け付けず戻してしまいます。
あるいは、無理に飲ませて、身体に負担をかけてかえって命を縮めるかも知れません。
ですから、そんな病人にはまず滋養のつくものを与え、体力の回復を待って投薬を行います。
仏教を説く場合でも、仏とも法とも知らない人に説く場合と、長らくご縁のある人に説く場合では、自ずと説く内容は異なります。
いくらお釈迦様の教えでも、そのまま伝えたら、いたずらに混乱させる場合があります。
そこで、真実であってもストレートに受け入れられないことは、分かるような言い方に変えて、段階を踏んで話します。
たとえ金銀楼閣に住まいして、たらふくご馳走が食べられるところが極楽と説かれる時がそうですね。
それは、真実の極楽の姿ではありませんが、聞いた人がイメージしやすくなり、極楽に行きたいと言う心になります。
このように、相手のレベルに合わせて説き方を変え、導くことを方便と言います。
よく「嘘も方便」と言われ、方便は軽い言葉に扱われていますが、真実にたどり着くための階段のようなものですから、真実同様とても大切なのです。

■100パーセントを教えようとしてはならない

これは、私たちの日常でも経験しています。
よく「言わな分からんヤツは、言っても分からん」と口にする人がいます。
どんな状況かと言えば、経験者から見て明らかに適切でない対応をしている人がいます。
そこで先輩は放っておけず、「こらこら、そこはそうじゃない、こうするんだ」と軌道修正を試みます。
しかし、人間は自惚れやすく、自分を分かっていないものだから、少し慣れるとうまく回せている気になってしまいます。
すると、いかに先輩の指導と言えど、自分の仕事をクサされた気分になって素直に「ハイ」が言えません。
それで、ああでもない、こうでもないと言い返します。
先輩からすれば、そんな抗議をしている暇があれば、とっとと手を動かせばとっくに終わっているのに、どうしてそんな無駄な時間を使うのか、とやり切れない気持ちになります。
そして、やり取りに疲弊して、「言わな分からんヤツは、言っても分からん」と投げやりな気分になるのでしょう。
実際、自分もビックリするような抗議を受けることがあります。そして、相手が留まっている思考が手に取るように分かります。何故なら、自分も通ってきた道だからです。
しかし、その時気をつけなければならないのは、自分の理解したことや、知らされたことの100パーセントを教えようとしてはならないと言うことです。

■基準は常に相手

つまり、相手は経験や知識が足らずに迷っているのです。
経験と言う土台が低いから、目線もそれなりで、見えている世界も狭い訳です。
しかも、それが世界の全てと思い込んでしまいます。
そこに、分かったものが自分の思いをそのまま伝えようとしても、見えている世界や、正しく判断する為の材料がまるで違いますから、とても受け入れることはできません。
つまり、茶碗がひっくり返った状態で、受け心がないのです。
だから、目線がおなじになるように導く必要がありますし、それに時間がかかる場合は、分かる言い方に変えて伝える必要があります。
自分も先輩に導かれて、なんとか言われていることを一つ一つクリアして進みます。
ある程度、こなせるようになっていい気になって浮かれている時に限って先輩の指導は変わります。
つまり、求められることのレベルが上がるのです。それは、事前に説明をもらえることもあれば、いきなり叱責されることもあります。少々スパルタだなと厳しく思いますが、同時に自分はまだ道の半ばなのだと知らされます。
また、それだけ段階を踏んで、手間をかけて導いてくれているのです。叱られ叱られやっとやっとで進んでいますが、本当はとても有難いことです。
対して、自分はよく分かっているから、自分はできるからと相手に同調を求め、それが思うに任せないと短気を起こす。
しかし、相手にそれを受け入れる力がなければ、自分の都合通りを望んでも詮無いことです。
自分も手間をかけて導かれてきました。
後輩に対しても、同じように手間をかけて導かなくては不公平でしょう。
一旦自分を殺して相手に合わせる。分からないものは分かった人に合わせられませんが、分かったものは分からない人にも合わせられるからです。