今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

あいまいな楽観主義

(写真:はなび その1)

■許容か、先延ばしか

「いいんじゃない」
そう言って貰えれば正直ホッとする。
それは相手の許容の意思表示だからだ。
許容したと同時に、今後何が問題が起きても、応分に責任を負担して貰える。
しかし、どうも不安な「いいんじゃない」もある。
それは、相手に判断するだけの充分な材料がなく、また甘い判断をカバーできるだけの権限がない場合である。
それは、根拠なく何とかなれると思っている、難しい判断を避けて、あいまいな楽観主義に逃げこんでいる。
そして、判断の先延ばしである。

■楽観論の根拠は

あいまいな楽観主義で進んだ場合どうなるか。
もし、実際に問題が起きたら、きちんと責任ある対応が取れるのか。
「えっ、いや、それはそう言うつもりではなかった」
往々に、そうふり戻される。
それで、しんどいのはこちらばかりである。
楽観論を取るなら、楽観論を取るなりの根拠を持って欲しい。その人なりに確信があるとか、例え今回はダメでもキチンとしたバックアップ策があるとか。
根拠無しに楽観論を振り回されたら、正直迷惑である。

■怖いのは未来に対する楽観主義

これは、実地に体験する迷惑な楽観主義。
しかし未来に対しては、やはり多くの人があいまいな楽観論に陥る。もちろん自分も同じである。
例えば自分と同じ年代になれば、あとは無難に何とかリストラされないように、定年まで勤めようと言う人も多いだろう。
60までは置いて貰えるだろう。いや、政府が後押ししてくれるから、65までは大丈夫かな。
そうして、65まで無難に勤めて、めでたく退職。後は、年金を貰いながら、貯蓄と退職金を取り崩して悠々自適な生活を。
とまあ、ビジョンならぬ、老後設計をするかも知れない。
しかし、10〜20年後、この国はどうなっているだろう。増え続ける介護、社会保障費と、年金受給者を支え続けるだけの体力があるだろうか。
65で退職した翌日から、全く収入の道が閉ざされることだってあるのだ。そう考えると、律儀に定年まで勤め抜くのはかえってリスクにならないか。
ならば、今我々の描いている明るい老後は、全くのあいまいな楽観主義になる。

■いつか支払う代償

いつかは何とかしなければならない。
頭では、ちゃんと理解できている。
しかし、南海トラフ大地震を恐れながら、家の地震対策すら疎かな状態。
人間の楽観主義は恐ろしい。
今日明日は大丈夫と根拠なく思っている。なぜなら、昨日もおとといも何ともなかったじゃないか。
だが、明日になっても、同じ理由で楽観論に座り込む。そのまた明日になっても同じである。キリがない。
万物の霊長と言いながら、今日明日の視界しか持たない。そして、間もなくやってくる破壊的Xデーにほぞを噛むのだ。
会社の事業の賞味期限にしろ、自分の人生設計にしろ、いつ襲うか分からない震災や病魔にしろ、そして確実に迎える人生の終焉にしろ、自分たちはあまりにも、あいまいな楽観主義に騙されている。
そして、その代償はいつか払わねばならない。
深く自省をしたい。