今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

成長とは、考え方×情熱×能力#90

(写真:オレンジ・トゥ・パープル その5)

安希子の気持ち

「あの、安希子さんが私のことを嫌いなのはよく分かりました。でも、あまり他の人にはひどいことはやめてください。」

「別に・・・、嫌いじゃないわ。」

「え・・・。」

「嫌いなら、なんで10年も付き合ってるのよ。」

安希子が歌陽子のことを好きか嫌いか、そして歌陽子がそれを知っているかいないか。
10年も付き合ってきた二人が今更それを口にするのはおかしいと思う。

おかしいと思うが、今までそれを口にすることはなかった。
考えてみれば不思議な関係である。
口は悪いし、態度も悪いが、基本的に安希子は歌陽子の面倒をよく見る。かなり表現には難があるが、安希子が歌陽子に投げつけるひどい言葉も、中身だけ吟味すればなかなか親切な世話焼きである。
一方歌陽子も、安希子の毒舌に気持ちをくじかれ、時に泣かされ、心を折られながらも、結局は安希子に多くを頼っていた。
志鶴の指摘通り、安希子なしではドレスもまともに着られない。
この精神的な支配関係と、外面的な主従関係とは、互いの依存心によって微妙なバランスで成立をしていた。
安希子にとって歌陽子は、割と捌けた遊び仲間のようなものであったし、また手のかかる子供のようでもあった。
歌陽子にとっても、安希子はある意味母親であった。それは、8歳と言う歳の差もさりながら、母親より公人の顔をしていることが多い志鶴に求められない母性を、安希子に求めていたのだ。
「本当にしょうがないねえ、この子は。なんでお前のようなバカを産んじまったのか、お天道様に顔向けできないよ」とひどく罵りながら、結局我が子に対する奉仕は片時も緩めない、そんな母親と子供のつながりが、自覚はなくても二人の間にあった。

そして、二人の間に、さらに大きな変化が生まれていた。
それは、歌陽子が東大寺家の枠を嫌って、外の世界に飛び出したからだった。
今まで、バカな娘と蔑みながら、その実手元に置いておきたいと言う気持ちが安希子には自覚なくあった。東大寺家と言う巨大な檻は歌陽子をずっと自分のもとに閉じ込めておくはずだった。
だが、歌陽子はそれまでに十分養った足腰のバネでポーンと外界に飛び出した。そして、見る見るうちに自分の世界を作り上げていく。
三葉ロボテク、開発部技術第五課、野田平、前田町、日登美の技術者たち、泰造と言う名の新鋭クリエイター、そして、異邦の青年オリヴァー・・・、歌陽子の世界に突然現れては強烈なインパクトで、彼女をてんてこ舞いせる登場人物たち。歌陽子は、彼らに振り回されながらも、最後は剥き出しの自分でいろんな障害を乗り切ってきた。
それは、不器用な歌陽子の精一杯の生き方。
そして、いつもスマートな安希子の決して出来ない生き方。気がつけば、置いてけぼりは安希子の方だった。
それが悔しくて、ますます歌陽子に舌刀を振るう安希子。言葉で貶めることが、唯一歌陽子とのコミュニケーションであり、開いた距離感を埋める手段であるかのように。

「いい加減にしてよ。どうして、あんたはそんなに根っからのお嬢様なのさ。」

「別に、私は自分をお嬢様だなんて思ってません。むしろ、他の人よりずっと生きるのが下手で迷惑をかけて謝ってばかりいます。」

「そう、それが東大寺歌陽子の憎らしいところよ。ひどいことをされたら、喚くとか、罵るとか、恨み、呪うだろ、普通。それが、まともな人間のすることだろ。だけど、あんたときたら、頭のネジが飛んでるのか、感情がないのか、なんとか苦労して、自分の中に飲み込んじまう。それで、何事もなかったように、ニコニコしてるんだから、畏れ入るよ。」

「違います。私はただ意気地なしで、自分の気持ちを見せる勇気がないだけで。」

「じゃあ、心の中はドロドロの坩堝だね。ああ、気持ち悪い。」

「そ、そうです。ドロドロです。安希子さんのように外に逃がせないから、ドロドロのドロドロです。」

あっけに取られて二人のやり取りを聞いていた、女子農業塾生。ただ、どう見ても、安希子の方がドロドロの権化だと思えてならない。

「あたしのことはどうでもいいよ。なんだよ、昔は何でも言うことを聞いたくせに、一人で勝手に大人になっちまって。」

ポロリと本音をのぞかせた安希子に、歌陽子は例によって無自覚な天然っぷりを発揮して、顔に笑みを溢れさせた。

「私たち、本当は年の離れた姉妹でしたもんね、ずっと。」

「こ、この!調子に乗るな!誰があんたみたいなおバカちんの姉貴なもんか!それに歳が離れた、は失礼だろお!」

「あ、ごめんなさい。だけど、私がバカだから余計放っておけないかったんでしょ。バカな子ほど可愛いって。」

「自分で言うな!だけど、あんたは今でも、何て言うか、その、可愛いいよ。それどころか、ますます、可愛くなったよ。もちろん、見た目のことじやないよ、バカっぷりが際立ってきたって言う意味だよ。」

「はい、いいです。私は安希子さんにさえ、可愛いと言って貰えれば満足です。」

「ほんと、可愛くないねえ、このお嬢様は。」

そこで、歌陽子はすっくと立ち上がって、安希子に向かって言った。

「はい、じゃあ、今日はここまで。今からは、東大寺家令嬢歌陽子お嬢様と有能なハウスキーパーの安希子女史に戻りましょ。」

「・・・。」

「安希子さん。」

「はい・・・、歌陽子お嬢様。」

「じゃ、まず、この方の服装を整えて下さる?」

「畏まりました。」

農業女史は、安希子が一瞬で変貌したことにただ驚いた。

「それと、あと私にドレスを着せてください。この後、今日の主役の務めを果たしますので。」

(#91に続く)

成長とは、考え方×情熱×能力#89

(写真:オレンジ・トゥ・パープル その4)

安希子と歌陽子

仮にも自分が使われている屋敷の令嬢をすっかり怯えさせ、また大泣きさせたのだ。
歌陽子が母親にそのことを訴えたら、安希子も決してただでは済まなかっただろう。

だが、歌陽子は安希子のデタラメを多少なりとも信じた。

(もし、自分がこの怖い家政婦の言うように、取り違えられた子供だったらどうしよう。本当にDNAを調べられたらどうしよう。)

これは、なんとしても歌陽子と安希子の中だけの秘密にしなければならないことだった。
そして、両親から自分の子供ではないかも知れないと疑いを起こさせるような行いは慎もう。
そう思って、歌陽子は安希子のことを両親に訴えもしなかったし、それ以来思い上がった言動を慎むようになった。
その意味で、東大寺家の娘である自分を客観視できる性格の基礎は、この時作られたと言っていい。
今まで、「お嬢様」「歌陽子さま」とさんざんチヤホヤされていい気になっていたが、自分がそれに値する中身を全く持ち合わせていないことを理解し始めた。それが反対に、彼女の内省的な性格と、父親譲りの聡明さに磨きをかけた。もちろん、それはもっと後の話である。

とにかく、結果的に歌陽子は安希子の身を守った。それは、歌陽子自身の身を守ることでもあったから。
それを安希子自身が見越していたかは分からない。母親の志鶴に言いつけられても構わないと腹を括っていたかも知れない。それくらい、安希子の性格には激しいところがあった。
いずれにしろ、安希子は東大寺家の長女に対して精神的に優位に立つことができた。
口では慇懃に「歌陽子お嬢様」と言いながら、その裏では歌陽子に何でもさせることができた。こっそり自分の仕事を手伝わせることも、自分の欲しいものを持ちださせることも、その気になればお金を貢がせることだってできた。ただ、安希子はそれを自重した。自分自身、歌陽子に対してリミッターがかからなくなるのが怖かったし、もっと有効な他の利用方も知っていたから。
それは歌陽子の従順さを利用して、自分の評価を上げること。
屋敷の他の家政婦や家庭教師の前でわざと我儘に振舞わせ、安希子の前ではおとなしくさせる。それも、恐怖で支配しているのではなく、あくまで安希子に懐いている様子を演じさせる。

「お嬢様、もっと笑顔。そうでないと、私が困ります。」

「はい・・・、安希子さん。」

「やめてくださいませ。そんな小さな声を出されては、私が怖がらせているみたいじゃありませんか。」

「は、はい!」

「そうです。もっとニッコリと。お嬢様は、笑い顔が可愛いところだけが取り柄なんですから。」

「ごめんなさい。」

「謝らなくていいです。」

ついつい口調がきつくなるのを、自分でも嫌に思っていた。だが、歌陽子と過ごしているときだけは、完璧でない素の自分をさらけ出せていた。そして、それが安希子にとってとても楽な時間でもあった。だから、安希子に自覚はなくても、彼女は明らかに歌陽子に依存していた。
今でも歌陽子の顔さえ見れば、つい憎らしい嫌味の一つも言わずにおれないのは、明らかにその頃の名残りである。

だが、傍目には二人の関係は実にうまく行っているように見えた。
それまでは手のつけられなかったグズな娘が、安希子の前では人が変わったように素直でよく言うことを聞く子供に変貌してしまう。
しかも、満面喜色いっぱい、溢れる笑顔で安希子に抱きつかんばかりのなつきよう。それも全て安希子の仕込みの賜物である、
これには、父親の克徳も母親の志鶴もすっかり感服して、何でも歌陽子のことは安希子に任せるようになった。
だが、本来感情的にしこりのある二人、果たして内心も見た目の通りの仲の良い関係であったかどうかは定かではない。

しかし、そんな関係も徐々に変化を迎える。
それは、歌陽子が中学生となり、世界が広がるに従って自我が形成されて来たからであった。その頃には、もう安希子のかつてついた嘘など歌陽子の中では問題でなかった。
そして、当の歌陽子はより聡明に、かつ内省的に磨かれて行った。
そうなると、安希子も今までのように歌陽子を支配することはできない。やはり、主筋としての敬意を持って接しなくてはならなくなったが、それでも歌陽子に対する毒舌だけは止まらなかった。歌陽子も、苦笑いをしながらも、一応それは受け入れた。それは、安希子にとって、いつも完璧を要求される自分からの解放区だったからかも知れない。そして、歌陽子もそれを直感的に理解していたのかも知れない。

(#90に続く)

成長とは、考え方×情熱×能力#88

(写真:オレンジ・トゥ・パープル その3)

安希子、オールドデイズ

「嫌いなら・・・、なんで10年も付き合ってるのよ。」

安希子が、東大寺家に初めてやってきたのは10年前、彼女が18、歌陽子がまだ10の歳だった。

歌陽子は、正直言って安希子のことが昔から苦手だった。
まだ、安希子は18の若さにも関わらず、いつも気配りが行き届いていて、屋敷内の隅々までよく目を配っていた。その時に屋敷にいたベテランの家政婦たちも、いつの間にか安希子に一目を置くようになった。
いつもしゃんとして、佇まいを崩すことがない。任された仕事は完璧にこなすのに加え、人の仕事には決して差し出口を挟まない。
それでいて、手の足りないところへは、いつの間にか手を回してフォローをしている。
歌陽子の母親の志鶴は、そんな安希子をとても重宝がり、いつも手元に置いて可愛がっていた。

克徳も、安希子の能力を認めて、東大寺グループでそれなりの仕事を与えようと考えたことがあったが、安希子自身は志鶴に恩義を感じてか、ずっと女主人のそばに仕えることを望んだ。
克徳は、安希子の才能をたいへん惜しんだが、志鶴と安希子の気持ちを慮って、それ以来そのことには触れなかった。
その代わり、安希子21の歳に東大寺家のハウスキーパーの立場を与え、屋敷の家事一切の取り仕切りを任せた。
それ以来、来る日も来る日も広大な東大寺家の屋敷を走り回って、安希子は屋敷の中を完璧に保った。まるで、彼女自身の佇まいのように。

その屋敷には、グズで泣き虫の子供が一人いた。小学生になっても、母親にいつもまとわりついている。未だに、夜一人で寝ることができない。
そのくせ、すぐ何かに夢中になって、食事も中途半端なまま他ごとを初めては家政婦たちを困らせていた。学校の宿題も始めてはすぐそわそわし始め、たった1ページを仕上げるのに、2時間以上かかった。あげくに勉強を見ていた家庭教師が音をあげて、代わりに宿題をやって提出する始末。
こんなダメッぶりを発揮している子供はさぞや学校では肩身が狭かろうと思いきや、豈図らんや、「お嬢様」といつも取り巻きに囲まれて、上にも下にも置かれない扱いなのだ。

その子供、東大寺家の歌陽子は、安希子にとって我慢ならない存在だった。
努力も我慢も知らず、甘やかされてグズグズの性格に育ってしまった。安希子からすれば、落伍者の典型に思えてならなかったが、実際は一族の威光をかさに着て、ますますチヤホヤされている。
裕福でない家庭に生まれ、真剣に努力しながらも、経済的な理由で高校を出てすぐ働かなくてはならなかった安希子。
しかし、努力は決して裏切らないと教えられ、自分の積み重ねてきた種まきだけを灯りに生きてきた安希子。
そして、あの東大寺家で認められ、やっと居場所を見つけた安希子。
その大切な居場所に、さも当たり前のように存在し、当然のように周りに奉仕を要求する歌陽子のような子供は、安希子にとって自分の世界に巣食う異分子に他ならなかった。
しかし、賢い安希子は努めてそんな感情は表には表さなかった。
歌陽子とも、他の家族同様従順に付き合うふりをした。

まだ、子供の歌陽子にとっての安希子は、また何でも言うことをきいてくれる大人が一人増えただけだった。
いつものように好きに振る舞い、困った顔をする安希子にも全く頓着しなかった。
その冷静さを保っている顔の下、安希子が密かに爪をといでいることを幼い歌陽子は知る由もなかった。

やがて、安希子が東大寺家に来て半年後、用事で急に来られなくなった家庭教師に代わり、安希子が歌陽子の宿題を見ることになった。
例によって歌陽子は最初から上の空で、鉛筆を取ろうともしないで安希子に話しかけたり、他の遊びを持ちかけた。
一時間後、たまらず、

「お嬢様、どうするんですか?全く宿題ができていませんよ。明日、先生に叱られますよ。」と言う安希子に、

「大丈夫、また安希子さんがやってくれるんでしょ。だから、ぜえんぜえん困らないもの」と歌陽子が言った。
まだ、若い安希子は、歌陽子にとっては大人と言うより小娘だった。

しかし、安希子は固い声を出して歌陽子に言った。

「お嬢様・・・。」

「ん?」

読みかけの本から目を上げずに歌陽子は答える。

「お嬢様は、本当にこのご一家のお子さんなんですか?」

「え?・・・、どうして?」

あまりに思いも寄らない言葉を投げかけられ、その場に固まる歌陽子。

「だって考えても見てください。お父様もお母様もあんなに優秀な方なんですよ。お二人とも優秀な大学を卒業してらっしゃいます。それに比べてお嬢様は、勉強はダメ、運動もダメ、ダメダメづくしで、あまりにかけ離れています。優秀なご両親のお子様なら、優秀で当然です。でも、お嬢様はとてもその血を引いていらっしゃるとは思えません。きっとお生れになった病院で取り違えられたんですわ。」

「ち、違う!違うわ!」

必死で否定する歌陽子。

「そうですか?じゃあ・・・。」

そう言って、安希子は歌陽子に近づくと数本の髪の毛をむしり取った。

「いっ・・・。」

「お嬢様、この髪の毛をDNA鑑定にかけます。そうすれば、お嬢様がこのうちの子供かどうか分かります。そして・・・、私は100パーセント、他の家の子だと思っています。」

「や、やめてよお。」

だんだん歌陽子は涙目になった。
こんな子供騙しに、いや子供騙しだからこそ、子供の歌陽子にとっては十分恐怖なのだ。

「もし、お嬢様がこの屋敷の子供でないと分かれば、いますぐここから追い出されますね。そうしたら、今晩からどこかの施設で寒い毛布にくるまって眠らなければならないですね。」

「も、もうやめてよお。お・・・お願いします。」

「安心してください。これに気づいたのは私だけなんで。私さえ黙っていれば大丈夫ですから。でも、お嬢様、これからは少しはちゃんとして下さいね。そうしないと、私、いつまでも隠しておけなくなります。」

すっかり怯えてしまった歌陽子。
そして、目からはとめどなく涙が溢れて出た。

「さ、お嬢様、もう宿題はすぐにできますね。」

そう言って鉛筆を握らせた安希子。
涙やら鼻水やらで顔をぐじゃぐじゃにして宿題を始めた歌陽子にとって、安希子は最初の厳しい世間であった。

(#89に続く)

成長とは、考え方×情熱×能力#87

(写真:オレンジ・トゥ・パープル その2)

ホラー系女子

「こら、どこへ・・・いく。」

怖い声が追いかけてきた。

「助けてえ!」と髪を振り乱した女性は歌陽子の首筋にかじりつく。

コツ、コツ、コツ、厨房の奥から響いて来る靴音に、

「ひ・・・ごめんなさい、ごめんなさい」と涙目で謝り始めた。

歌陽子は、ことの成り行きにしばらく呆然としていたが、やがて気を取り直すと、

「大丈夫ですよ」とギュッと女性の肩を抱いた。そして、キッと厨房の奥を睨んで声を出した。

「安希子さん。」

「誰?」

「歌陽子です。」

「ああ、あんたか。」

お酒の所為なのか、怒りに我を忘れている為なのか、すっかり主家に対する礼儀を失っている安希子。

やがて、奥からゆっくりと姿を現した。

赤らんでいた顔は今は蒼白になって、目が座ってきつい表情になっている。
これは、この女性が怯えるのも無理はない。

(まただ・・・。)と歌陽子は思った。
悪い酒を過ごした安希子を見るのは、今年に入って二度目。そう、一度目は元日の明け方だった。

その、安希子を鎮める呪文は一つだけ。

「安希子さん・・・。」

「何?」

「お母様にいいつけますよ。」

「奥様・・・。」

破壊されたシナプスが修復されるように、安希子の頭の中で色々なことがらつながり始めた。

「奥様・・・、あ・・・。」

「安希子さん、しっかりしてください。」

「あ、歌陽子お嬢様。」

「はい、私です。」

歌陽子は、首にかじりついている女性の手をゆっくりと離すと、安希子の方に向かって一歩歩みでた。
そして、安希子の肩を抱いて、静かにその場に座らせた。
歌陽子は、近くにあったコップを手に取ると、蛇口をひねって冷たい水を満たした。

そして、また安希子の肩に手を回しながら、彼女にコップの水を勧めた。

「さ、安希子さん、ゆっくり、ゆっくりでいいですから、飲んでください。」

言われるまま、コップに口をつけた安希子は、ゴクリゴクリと喉を鳴らして、ほぼ一息で飲み干すと、ふうとため息をついた。

あの女性は、まだ猜疑心をもって安希子を見ている。

「一体何があったんですか?」

とりあえず聞いてはみたけれど、だいたい想像はついた。
お酒で我を忘れた安希子が、世話を任された女史農業塾生にさんざん絡んで、挙句にたまらなくなった彼女が厨房に逃げ込んだところを安希子に見つかったと言う落ちなのである。
それにしても、すごい怯えようだ。
まさか、暴力とか振るわれてやしないか、歌陽子は心配になって聞いてみた。

「あの、何かひどいことされませんでしたか?」

「あ、あの、そんなことは別に。でも、その人すごく怖いこと言うんです。」

「ど、どんな?」

「このうちの金持ちたちは好き勝手お金を使っているくせに、使用人にはわずかな給金でも惜しむ、とか、それでいて朝から晩までコキ使うとか。
最初は、可哀想ですね、って聞いていたんです。そうしたら、だんだん言うことがきつくなってきて・・・、農業塾だがなんだか知らないけど、さっさと逃げ出さないと、ここの人間に関わると取り返しのつかないことになるよ、とか。
特に、あの歌陽子はワルだよ、とか。
あいつは、バカで世間知らずで、地味で、なんの取り柄もないメガネ女子のクセをして、・・・ごめんなさい、親の七光りとかで、お金にも、男にも、ポストにも恵まれて、でもそれに少しも感謝なんかしないで、好き勝手やって、私らのこと見下しているとか。
あの・・・。」

「な、なんですか?」

「歌陽子さんは、本当に・・・、曜日ごとにイケメンの彼氏がいるんですか?」

「い、いるわけないじゃですか!私、これまでまともに男の人とお付き合いしたこともありません!」

「おぼこ・・・。」

ぼそりと安希子が呟く。

「ですよね。歌陽子さんはそんな人じゃないと思ってました。それで、うちの師匠のお孫さんにひどいこと言わないでください!って怒ったら・・・、お前もか!って。」

歌陽子は、そうっと安希子の顔を見た。
安希子は、その歌陽子の顔を見返して、ニッと笑った。

(やっぱり、まだ壊れてる。どうしよう。)

「それで、この人、ものすごく心霊とか、オカルトに詳しくて、夜中に窓を見ると赤い牛の顔をした女が外からのぞいているぞ、とか、今晩から枕元に冷たい顔をした白いおかっぱの少女が立つぞとか・・・、私、そう言うの苦手なんです!」

聞きながら、歌陽子も寒気に襲われていた。

(どちらかと言うと私も、そう言うの、苦手・・・、本当にもう安希子さんを敵に回すのやめよう。)

「だから、耐えきれずに怖くて逃げ出したら追いかけて来て・・・。」

もう、ここまで来ると歩くホラーである。

「ひゃっ、ひゃっ、ひゃっ。」

「あ、安希子さん・・・。」

「なんですか?お嬢様。」

「あの、安希子さんが私のことを嫌いなのはよく分かりました。でも、あまり他の人にはひどいことはやめてください。」

「別に・・・、嫌いじゃないわ。」

「え・・・。」

「嫌いなら、なんで10年も付き合ってるのよ。」

(#88に続く)

成長とは、考え方×情熱×能力#86

(写真:オレンジ・トゥ・パープル その1)

異形の宴

「あ、あわわわ。」

あわわの擬音は漫画の中だけかと思っていた。だが、その口から発せられた「あわわ」はまぎれもない歌陽子自身の言葉。

目の前に転がった女性の髪の毛の塊に、すっかり度肝を抜かれて、その場から急いで逃げだそうにも、腰が立たない。

(だ、だけど、ここはもうダメ。すぐに逃げないと・・・。)

そう思って、厨房のフローリングの床にお尻を引きずって、足と手だけでそろそろと後退りをした。

ガクガク震えが来て、心臓は早鐘を打つ。
怖い髪の毛の塊を見ないように、ギュッと目をつぶって歌陽子は、少しずつ入り口に向かって身体を後退させ始めた。

やがて、手を伸ばせば入り口のドアに届きそうな位置までやってきた。

(あと少し)

歌陽子は、必死で入り口近くのストッカーにつかまってなんとか立ち上がろうとした。

その時、低い声でこう呼びかけられた。

「こら、お前・・・。どこへ・・・行く。」

「ひ!」

恥ずかしげもなく、叫び声をあげて、そのまままた、腰を抜かして座り込んだ。

ズルリ、ズルリ。

血肉を引きずる生々しい音が聞こえてきた。
見れば、

あ、あれは、

あの髪の毛の塊にいつの間にか手が生えて、こちらめがけてズルリズルリと近づいてくるではないか。

「しく、しく、しく」

泣き声がする。
そう、あの髪の毛の塊が静かに嘆きの声をあげていた。
その進み方がもはや尋常ではなかった。
頭を左右に大きく振りながら、蛇が身体をくねらせるように進んでくる。

これは、もう人間じゃない。
東大寺家に巣食う魑魅魍魎が、今日集まった様々な人間の思惑や、欲や恨みに触発されて現世に姿を現したのだ。

ズルリ、ズルリ、いやらしい音を立てながら、それはあっという間に歌陽子の鼻先にまで到達した。
手の生えた髪の毛の塊。
腰を抜かして動けない歌陽子の足元にしっかり取り付いた。その気味のわるい手が、ズボンからシャツへ、シャツから首筋へと這い上がってくる。
歌陽子は凍らされたようにまんじりともすることができなかった。
そして、人相が変わるほど顔を引きつらせなががら、押し寄せる恐怖に為すすべがない。
やがてゆっくりともたげた髪の毛の中に生涯忘れられないだろうものを見た。

それは、

必死で何かから逃れようとする、女の泣き顔。

「た、助けてえ・・・。」

「へ?」

(#87に続く)

成長とは、考え方×情熱×能力#85

(写真:斜陽の白壁)

厨房の怪

「安希子さん!安希子さん!」

歌陽子の二の腕を掴んで強く引っ張りながら、志鶴が呼ぶ。

さっきまでいたはずの場所から、安希子は忽然と消えていた。
そして、後には、安希子の面倒を任せた農業塾女子のものと思しき、作業靴が片方だけ。ミステリーのようで、不穏な匂いがプンプンする。
いや、この匂い、安希子の香水とアルコールの混ざった匂いかも知れない。

「ちょっと、歌陽子。」

「はい、お母様。」

少し斜め下から志鶴の顔を伺いながら答える。

「あなた、安希子さんを探してらっしゃい。」

「え?なんか、疲れていたようですし、きっとどこかで休んでいますよ。今日のところは手も足りているようですし、そっとしておいてはいけないですか?」

「何言ってるの。あなた今日の主役でしょう。まだ、みなさまにご挨拶をしていないでしょ。」

「はい。」

「だから、またドレスに着替えなければならないでしょ。その時にまた安希子さんに手伝って貰わなくてどうするの。」

その時、安希子のコルセットを締め付けるギュウギュウと言う音が歌陽子の脳裏に響いた。

「あのお、お母様・・・、ドレスくらい私、自分で着られます。」

「バカねえ、この子は、何言ってるの。あなた、自分でドレスを着たところ、鏡に映したことあって?ウエストも、バストもゆるゆるで、子供の学芸会みたいよ。」

「だって、それは私が・・・。」

子供体型だから、と言おうとしてやめた。

令嬢と言う人種は、30パーセントの優越感と、20パーセントのプライドと、50パーセントの見栄で出来ていることを歌陽子は知っていたから。

「さあ、安希子さんを探しに行くの。ハ・ヤ・ク!」

母親の志鶴は、歌陽子のことをさんざんクサすくせに、不思議となんでも彼女を頼んでやらせようとする。人間には、時折そんな依存関係が発生する。
ダメだ、ダメだと文句を言うなら、そんなダメな人間に頼まなければ良いものを、事あるたびに用事を言いつける。言いつけては、文句を言う。しかし、そのダメな相手がいなければ夜も昼も暮れない。
歌陽子と志鶴の関係も少しずつそれに近づいているかも知れない。

いずれにしろ、志鶴はこうと言ったら絶対引かないし、歌陽子も逆らうことができなかった。

「はあい。」

少し間延びした返事にわずかな反抗心を込めて、歌陽子はホールから厨房の方に向かった。

しかし、あの塾生に悪いことをした。
あの場の光景は、禁断の地に迷い込んだ乙女が、そこに巣食う物の怪に連れ去られたようではなかったか。
魔物は生贄を己が巣に連れ込んで頭からムシャムシャと齧るのだ。

そんな想像に身震いしながら厨房に近づくと、果たして「しくしく」と悲しげな鳴き声が漏れてきた。
ほんとに、安希子は、塾生を生きながらに丸かじりにしているのか。

そおっと、厨房のドアノブに手をかけ、少し開いて中を覗く。灯りは落ちていた。
しかし、部屋の奥からは、チロチロと小さな光が漏れてくる。

悲しげな、しくしくは、相変わらず続いていた。
止まりそうな足を励まして、歌陽子は厨房の奥へと進んで言った。
ふっと横を見ると、片目が異様に大きな、白い顔が自分を睨んでいる。

「あっ!」と叫びそうなのを必死で堪えて、よく見直してみると、それは食器洗い機の銀色の壁面に映った自分の姿であった。ボディのわずかな凹凸が映るものをみな異形に変えてしまう。ましてや、チロチロ漏れるわずかな光の中で見る姿は恐さがひとしおだった。

歌陽子は怖さに負けまいと声を出して、安希子に呼びかけた。

「あのお、安希子さん、いるんでしょ?あと、お名前を聞いてませんでしたけど、安希子さんを見てくれて有難うございます。」

その時、ふっと、しくしく泣いている声が止まった。
そしてガラガラと、耳を聾するかの如き大きな音がした。
思わず、その方向を振り返った歌陽子、さっと走り去る人影を見た。

そして、今度は後ろに人の気配。
恐々と首を回して、彼方に目を向けた歌陽子の前に、バン!

「う、うわあ!」

たまげて歌陽子は尻餅をついた。

それはあまりにこの場に不似合いな若い女性の髪の毛の塊だった。

(#86に続く)

成長とは、考え方×情熱×能力#84

(写真:水彩画展 その2)

立ち回り始末

気がついたら、天井を見ていた。

(あ、れ、どうなった。)

オリヴァーは、今何が起きたか理解できなかった。
ひ弱な歌陽子を叩き伏せて、東大寺老人との約束通り、彼女を手中にするはずだった。
だが、今、床に転がされているのは、紛れもないオリヴァーの方だった。

その時彼の視界に、オリヴァーを覗きこんでいる宙の顔が見えた。

「あ〜あ、まさかこんなに見事に決まるとは思わなかった。」

「決まる?何が?」

「だから、オリヴァーはねえちゃんのアイキで投げられたんだよ。」

「アイキって、あの日本のブドウのか?」

「そう、合気道。」

そこで、始めてオリヴァーは床から身体を起こした。

「そうか、だから、マサノリはあんな無茶な約束ができたんだ。やられた。カヨコはブドウのタツジンだったんだ。」

「いや、全然へたっぴだよ。むしろ、俺の方が強いもの。」

「どういうことだ?」

「アイキの達人はね、母さんなんだよ。これから物騒な時代だから合気道を身につけなさいって、さんざん習わされたんだ。俺はおかげで少しは使えるけど、ねえちゃんは全然ダメ。運動音痴なんだ。だから、母さんも諦めて、たった一つの技だけを徹底的に覚えさせたんだ。それが、あの技。」

そう言って、宙は、歌陽子の技の真似をした。

「そうか。」

「気にしなくていいよ。あんな中途半端な技、普通だったら絶対通用しないから。オリヴァーがねえちゃんのことを知らずに油断してたから、やられだだけさ。二度と負けやしないから心配いらないよ。」

「いや、マサノリと、カヨコにはもう関わらないと約束した。」

「へえ、オリヴァーは意外にブシドーなんだね。あのさ、あのじいちゃんが、あんな約束守るはずがないよ。ねえちゃんがヒスを起こしてたし、じいちゃんも面白半分で言ってただけさ。」

「そうなのか?」

「そうだよ。自慢じゃないけど、俺、生まれた時からずっとじいちゃんの孫だぜ。」

「いずれにしろ、僕はロボットにコンサレートした方が良さそうだ。」

「そうそう、あんなつまらないねえちゃんのことはほっておいてさ。」

「いや、ソラ・・・。」

「何?」

「僕は、損得抜きでカヨコが欲しくなった。今は無理だけど、必ず手に入れてみせる。」

一方、オリヴァーを見事なアイキの技で投げ飛ばした歌陽子は、感情の高ぶりの反動で、その場に座り込んでいた。

「ご老人、これは演武の一つですかな?」

集まってきた見物客に先代が質問を受けていた。

「ほっほ、そうじゃ。その通りじゃ。娘武芸者、怪しからね外国人を懲らすの巻じゃ。」

「ほう、すっかり、本当に喧嘩していると思いましたよ。」

「いや、お孫さんの、あの技、実際にはああもきれいには決まらないでしょ。」

「ん?バカ言うてはならん。歌陽子の強さはあんなもんではありはせん。」

「そうですか、失礼しました。」

歌陽子をネタにすっかり主役の気取りの先代。
一方、

「歌陽子さん、大丈夫ですか?」

座り込んで肩で息をしている歌陽子に、森一郎が声をかけた。

(あ、お弟子さん。)

大立ち回りを演じて気まずい歌陽子に、しかし、森一郎はにっこりと笑いかけた。

「あ、あの・・・。」

「僕は森一郎と言います。」

「シンイチロウ?」

「はい、森に一郎です。覚えやすいでしょ。」

「ええ、まあ。」

「歌陽子さん、かっこ良かったですよ。僕、強い女性嫌いじゃありません。」

「あ、有難うございます。でも、私ぜんぜん強くなんかないですよ。」

「またあ、あんなきれいな投げ技。あれって、『呼吸投げ』でしょ。」

「そんな名前なんですか?私ちっとも真面目に練習しなかったから。」

「じゃあ、火事場の馬鹿力だったんですかね。まずは立って、向こうの椅子で休んでください。」

そして、森一郎は歌陽子に手を差し伸べた。
今日のところは、森一郎が一番恋愛レースの点数が高かったようだ。

思わず、森一郎の笑顔に引き込まれるように、彼の手を取って立ち上がりかけた歌陽子だったが、急に耳に火のつくような痛みを覚えた。

「い、痛い!痛いです!」

歌陽子に必死の叫びをあげさせた張本人は母親の志鶴であった。
後ろからいきなり現れた志鶴は、歌陽子の耳を力任せに引っ張った。

「ゆ、許してください。もう、しません。しませんから。」

「歌陽子、お前って子は。安希子さんを見ててって、言ったのに。こんなところで人垣を作って何してるの!恥を知りなさい!」

「千切れる。千切れます!」

それで、ようやく志鶴は歌陽子を解放した。
びっくりして目を丸くしている森一郎と、必死で失笑をこらえている周りの大人たち。

「あら、まあ、私としたことが・・・。とんだ失礼をしました。」

恥ずかしさに顔を赤らめながら、志津は歌陽子を引っ張ってその場を離れて行った。

(#85に続く)