新人君へ
新人君へ。
学校と、社会の違うところは、責任の対象。
学校は、どこまで行っても、自分に対する責任。もっと言えば、自分がちゃんとしてれば、それで良かった。
社会は、自分じゃなくて、人に対する責任。
自分がちゃんとしていても、人が困ったり、迷惑をかけるのは許されない。
「自分は」の主語が通用しない。
おそらく学校では習わないけど、現場では最初に教わることなんだよ。
新しい数学
とあるテレビ番組によれば、現代数学の原理原則は.「異なるものを、同じとみなすこと」だそうです。
例えば、3つのリンゴと、3回巻いたローブ、まるで共通点のない2つが、3という事象で一まとめにされます。
ということは、現代数学は徹底した抽象化で、類型化し、グループ分けし、没個性化する。そして、一絡げで管理把握しようとする。
例えば、30人クラスの英語の平均点が68点だったとします。そうすると、60点から70点は平均的な子供で、70点以上は英語が得意、60点以下は英語が苦手と類型されます。
でも、70点以上の子供にはそれなりの理由があり、60点以下の子どもにも如何ともし難い事情があるかも知れません。同じグループに分けようとしても、一人一人違いますり
今、提唱されようとしている数学は、同じものの中に違うものを見ようとする考え方、従来の数学と完全に逆行する思考方法です。
確かに私たち日常の認識は、男と女と同じカテゴリーに分類しながら、その男に一人一人違う個性を見つけようとします。その意味では、数学がとても人間的な認識を始めることになり、ひょっとしたら今の数字偏重の世の中がもっと血の通ったものに変わるきっかけとなるかも知れません。
人は個人であり、パーソナルであり、個性です。何人、いくら、何%では表記できるものではありません。改めて、そのことを肝に銘じたいと思いました。
身勝手な歌
遠くにいれば、
あの手、この手で近づけようとするくせに、
近くにきたら、
言い訳ばかりして、離れよう離れようとする。
挙句に手が届かないところに行ったら、
ああもしておけばよかった、
こうもしておけばよかった、
と愚痴り倒す。
それが、
本当の幸せを知らない
僕らの『身勝手な歌』なのだ。
坂を下る時
坂を下る時は、自然と足が前に出ます。
そして、スピードが上がって視界が狭くなり、周りを見る余裕がなくなります。
そうすると、道ゆく人への気遣いを忘れて、嫌な思いをさせても気がつかない。
調子が良く、勢いのついた時は怖いものです。
自分がいない。
どうしてか、いつも自分がついて回る。
「自分」は、こう言ったら損か、得か。
「自分」は、どうしたら、少しでも立派に賢く見てもらえるか。
「自分」に、これは有利か、不利益か。
いつも世界と「自分」との調整に明け暮れて、評価をかき集めることばかり懸命になっている。
でも、外見を「自分」で固めると中身がない。
一番大事な「自分」がいない。
「自分」が外に漏れてしまっている。
ありのままの世界を受け入れる
成功している人を見たり、
素晴らしい人にあったりすると、
つい、自分と引き当てて
わざと卑屈になったり
無理に自分の優位点を探そうとする。
ありのままに見ればいいのに。
優った相手がいても
いなくても
自分の価値は上がりもしなれければ
下りもしないのだから。
立派な人は立派なまま、
優れた人は優れたまま、
ありのままを世界を受け入れる。
きっと見えなかったものが見えてきて、
それは、自分の心の糧となる。