成長とは、考え方×情熱×能力#41
先代
その日の昼前、1組の老夫婦が東大寺邸の前に姿を現した。
老爺の年の頃は、もう80に近い。
いかにも田舎から出て来た体で、野良着にもなりそうな粗末な上着とズボンを身につけていた。
側の婦人は、70半ば、派手ではないがそれなりに身なりを整えてしゃんと背筋を伸ばしている。
「おじいさん、そんな薄着で寒くはありませんか?」
「何度も同じことを聞かんでええ。わしは、日頃野良で鍛えとるからこんなくらい寒いうちに入らんよ。」
「もう、年齢を考えてくださいね。」
「分かっとるよ。」
そう言って老爺は、東大寺邸のインターフォンのチャイムを押そうとした。
しかし、それより早く屋敷の門が開いて、東大寺家当主の妻、志鶴が姿を現した。
「お義父様、お義母様、よくお越しくださいました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。」
丁寧に頭を下げる志鶴に、
「ああ、志鶴さん、わざわざ済みませんねえ。こちらこそ、よろしくお願いします。」
老婦人も丁寧に挨拶を返した。
一方、老爺の方は志鶴には軽くうなづいただけで、やたら中を気にしていた。
「お義父様、何か?」
「いや、その、歌陽子はどこじゃ?」
「また、気の早い。」
「じゃが、去年の正月から一度も顔を見ておらんじゃないか。」
「歌陽子お、歌陽子。さ、お祖父様に挨拶なさい。」
志鶴に呼ばれて、その場に控えていた5、6人の使用人の後ろから振り袖姿の歌陽子が顔をだした。
「お祖父様、今年もよろしくお願いいたします。」
「おお、歌陽子、お前一年合わないうちに随分としっかりした顔になったなあ。」
「本当ですね。歌陽子、あなた今年から働いているんですってね。」
少し照れ笑いを浮かべながら歌陽子は、
「そんな、まだ何もできていません。」と答えた。
「そう言えば、お前幾つになった。」
「はい、今月の6日で21です。」
「そうか、早いもんだなあ。」
「あの、お祖父様、成人式には立派な振り袖をありがとうございました。」
「カカカ、なんの、たった300万ぽっちだ。気にせんでええ。」
「おじいさん、300万ぽっちって、人が聞いたらおかしく思いますよ。」
「ばあさん、歌陽子のためじゃ。ちっとも高くはありはせん。」
「あの・・・。」
少し気後れしながら歌陽子が口を開いた。
「成人式の写真、見ていただけました?」
「ああ、村に来る時とはまるで別人じゃった。ばあさんとずっと一年間写真を見て過ごしておったわ。」
「去年は一度も行けなくてごめんなさい。」
「いい、いい、歌陽子なりに一生懸命やっておるんじゃ。じゃが、同じ就職するなら、うちの村にすれば良かったんじゃ。そうしたら、ずっと一緒に米だの野菜だのを作れたのにのお。」
「はは・・・。」
母親が引きつった笑いを浮かべたのを敏感に感じ取った歌陽子は、思わずごまかし笑いを漏らした。
「さ、宙(そら)もご挨拶なさい。」
志鶴に促されて前に出たのは、まだ中学生くらいの少年。
チェック柄の青いシャツの裾をだらしなくデニムのズボンから垂らした、いかにも生意気ざかりの中学生。
彼は歌陽子の6つ年下の弟の宙だった。
宙は、手をポケットから出すこともせず、面倒臭そうに祖父母に挨拶をした。
「じいちゃん、ばあちゃん、おめでと。」
「これ、宙。」
志鶴は宙をたしなめた。
先代当主である祖父の前では、「あけましておめでとう」はご法度なのだ。
今年、自分が死ぬ年かも知れぬ。なのに、「おめでとう」はおかしいと父克徳も母志鶴もずっと聞かされていた。
しかし、先代はあまり気にも止めずに、
「ああ、おめでと。」とだけ返した。
だが、今しがたの歌陽子に対する猫可愛がり方とは明らかに差があった。
宙は、それが気に入らないのか、口を尖らせてわかりやすく不満を顔に表した。
「おじいさん、もっと何か声をかけないと。宙だって大事な孫ですよ。」
「じゃが、わしはこの坊主がどうも苦手なんじゃ。」
「おじいさん。」
しかし、二人の会話など関心ないと言わんばかりに、宙は踵を返して、スタスタと屋敷の中に入ってしまった。
(#42に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#40
血族
「お義父さんたちは、何時に来られるのだい?」
新年朝の食卓で父克徳が、母志鶴に尋ねた。
お義父さんとは、つまり歌陽子の母方の祖父母のことである。
「お昼になるそうです。」
「そうか、おそらく先代と、お袋もそれくらいになるだろうから、一緒に食事をしたら良いな。」
先代とは、克徳の父親で先代当主のことである。
今は、当主の立場を息子の克徳に譲って、富士山の麓で悠々自適の晴耕雨読の生活を送っている。
山奥の過疎化した村に土地を買って、10年前から農業を始めた。先代の妻、喜代も主人と一緒に農村に同化して、いまやすっかり農家の夫婦である。
野良着を着て、よく似合う麦わら帽の下からカカカと笑う日に焼けた好々爺が、東大寺の先代当主と聞かされても知らない人間は誰も信じないだろう。
東大寺グループの医療界における今の地位を築いたのは彼だった。その意味では現代における巨人の一人に数えられてよい人物だが、彼は常々一農夫として墓碑に刻まれたいと言っていた。
歌陽子は、毎年農繁期には祖父の村を訪ねて農業の手伝いをした。その時は、ティーシャツに、腰丈のチュニックをキュッと結んで、ジーパンを履いたどこから見ても農家の娘だった。
歌陽子は、真っ黒に日焼けた野良姿の自分を母親に写メしたが、必ず「お前は東大寺の娘として恥ずかしくないように振る舞わなければなりません」と小言が返った。
娘に農家の手伝いをさせる先代にはあからさまに文句を言えないから、歌陽子にそれとなく伝えているだけである。
もちろん、歌陽子はそれには気づいても気づかないふりをしていた。
「歌陽子、お前、先代のところへいつから行っていない?」
父克徳の問いに、
「はい、あの、去年は一度も。短大卒業後は、就職のことでそれどころではありませんでしたし、農繁期にも休みは取れませんでしたし。」
「だろうな。お前が去年就職して農家どころでなくなったと伝えたら、『どうせなら何故ワシのところに寄こさん』とたいへんな剣幕だったぞ。」
それに対して、志鶴はかなり真剣に異議を唱えた。
「それは困ります。歌陽子は人一倍同化しやすいのですから、そのまま地元の青年団と結婚して定在しかねません。」
(そっか、その道もあったか。)
ふと、そんなことを考えて遠い目をした歌陽子を志鶴は見逃さず、すかさず、
「歌陽子、おかしな妄想はおやめなさい。」とピシリとたしなめた。
「まったくあなたも、お義父様も、歌陽子のやりたいようにやらせ過ぎです。お友達はまだ学業に励んでいるのに、会社員の真似事なんかさせて。」
「いや、会社員も立派な勉強だ。何も大学に通って立派な学位を貰うばかりが偉いんじゃない。それに・・・。」
「それに、なんですか?」
「歌陽子は、宙と違ってあまり勉強は得意ではない。」
「お父様!」
持ち上げられたり、落とされたりで、歌陽子から文句の一つも出る。
「あ、すまん。」
「もう!」
「それより、せっかく雑煮が冷めてしまうぞ。」
「あ・・・はい、いただきます。」
「いただきます。」
志鶴も続いた。
「ほら、宙も言いなさい。」
「え、俺、いいよお。」
東大寺家と言えど、元旦の朝の食卓ではめいめいの一膳の雑煮と屠蘇だけがのっていた。
ただ雑煮と言う名前に反して、艶めくイクラと根菜の入った一流料理人による一品だった。
克徳は給仕を終えて控えているメイドやハウスキーパーの安希子にも声をかけた。
「さ、みんなも席につきなさい。」
「はい、ありがとうございます。」
彼女たちも席について食前の合掌をした。
「いただきます。」
「いただきます。」
食事は使用人も同じテーブルで取るのが東大寺流である。
「お餅おいしい。」
「昨日、先代から届いたのだ。」
先代当主はすっかり農の人である。
(#41に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#39
家族のテーブル
「歌陽子、遅いですよ。」
「申し訳ありません。」
東大寺家の新年は、そんな会話から始まった。
「どうしていたんだ?」
少し問い詰めるような響きを含んだ父の声。
「すいません。着付けに時間がかかってしまって。」
「本当なの?」
母の志鶴の問いかけに、そばに控えていた安希子が、
「はい。お嬢様のおっしゃる通りです。」
と答える。
お互い昨日から今朝にかけての行状を知られたくないもの同士で、歌陽子(かよこ)と安希子は協定を結んでいた。
心ならずも、前田町たちと一晩を過ごした歌陽子と安希子は、急いで東大寺邸に帰宅した。新春の朝をポルシェで飛ばして、帰り着いたのが7時半。それから、2人は急いでシャワーを浴びた。特に安希子は酒の匂いを消したくて、うがい薬を原液のまま口に含んで思い切りむせていた。
そして髪からまだ雫を垂らしながら、申し合わせたように着付けの部屋に直行した。
待ち兼ねて不満げな着付師に謝り倒して、いつもの倍速で振袖を着せて貰う。
その時、押しの強い安希子は頼りになった。
やがて、安希子は一通り歌陽子の着付けが終わったと見ると、ハウスキーパーの制服に着替えるために自室に足早に去って言った。
この間、約1時間。
再び、食堂の前で落ち合った振り袖の歌陽子と制服の安希子。
お互いアイコンタクトして、深呼吸をした。
もう、両親と約束した時間はかなり過ぎていたのだ。
ガチャッと重い扉を開けると、まず母志鶴がこちらを見た。
次に、端末に目を落としていた父克徳がゆっくりと顔を向ける。
また、給仕係のメイドが2人頭を下げる。
あと、中学生くらいの少年が母の向かいに座っていたが、何かをいじりながら下を向いたままだった。
歌陽子は家族に向かって、両手を前に揃えて「お父様、お母様、本年もよろしくお願いいたします」と新年の挨拶をした。
それに対して、母親が返した言葉が、
「歌陽子、遅いですよ。」であった。
もちろん、志鶴には昨日からの朝帰りはバレているだろう。
ただ、安希子を信頼しているので、滅多なことは起こるはずがないと安心して、あまり詮索する気はないらしい。
後は父さえ納得させられたら、なんとか乗り切れそうだった。
「あまり、安希子さんに世話をかけるんじゃないぞ。」
「はい。すみません。」
「待たせてるんだから早く座りなさい。」
「はい。」
やれやれと思って、母親の向かいの席に着いた歌陽子に、ふいに隣の少年が話しかけた。
「ねえちゃん、昨日の夜から出かけてたろ?彼氏のところから、朝帰りなんてダメだな。」
不意の直撃に、顔に動揺の色を隠せない歌陽子。思わず、口ごもる。
「バ、バカ、宙(そら)。な、なに言うのよ。ゆ、夢でも見たんでしょ。」
「じゃあ、なんで夜の2時頃、ねえちゃんの駐車場カラだったの?」
「あんた、2時なんて、いつもネトゲで寝落ちしている頃でしょ。いい加減なこと言わないで頂戴。」
「歌陽子、ネトゲとかネオチとか、ハシタナイこと言わないの。」
志鶴が歌陽子をたしなめた。
「すいません。」
小さくなる歌陽子に追い打ちをかけるように、少年宙は今までいじっていた彼のスマホを机の上に置いた。
そして、
「しらばくれても証拠があるもんね。」
と言うと、オンラインコントロールの一種と思われるアプリを立ち上げた。
「うちの駐車場の監視カメラをハッキングしたんだもんね。そして、これが2時の映像。」
確かに、歌陽子のポルシェの場所が空きになっている。
「う・・・。」
「あと、3時、4時も見せようか?」
明らかに父の顔が険しくなっている。
なんて年の始まりかしら・・・。
その時、母志鶴の声が響いた。
「もう、いい加減になさい。歌陽子が夜に出かけたのは、私も承知しています。」
「そうか。」
父は短かく答える。
「はい、頑張っている社員のみなさんへの陣中見舞いだと言っていました。
安希子さんにも付き添って貰いましたから間違いありません。そうですよね。」
「はい!」
「はい!」
どちらに聞かれたか分からなかった歌陽子と安希子は同時に返事をした。
「ならば、間違いないと思うが、歌陽子。」
「は、はい。」
「仕事熱心なのも結構だが、あまり安希子さんに迷惑をかけるんじゃない。
それに若い娘の朝帰りも感心できないぞ。」
「私がついていながら、申し訳ありません。」
「いや、安希子さんが謝ることではない。そこは、歌陽子自身がもっとしっかりしなければならんことだ。」
いや、安希子さん、この人、絶対計算してやっている。
「こらっ、歌陽子、ちゃんと聞いているのか?」
「は、ハイッ、すいません。」
まずは、東大寺家の新年の一コマから。
(#40に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#38
暁光
「カーッ、うめえ。」
今まで安酒を注いで飲んでいた湯飲みに、無造作に一本10万近くする日本酒を注いで、一気にあおる野田平。
「こんなの今まで飲んだことないぞ。」
「何言ってやがる。前に村なんとかって言うヤツとヘリの中で飲んだだろう。あれも結構したぜ。」
「あれは、洋酒だろ、これは日本酒だ。」
「それもこれも、嬢ちゃんあってこそだ。感謝するんだな。」
「そうだな・・・って言うか、腹立ってきたぜ。そうだろ!カヨみたいなノータリンでも、ちょっと間違って金持ちに生まれたら、毎日こんなうまい酒が飲めるんだぜ。」
「おい、のでえら、あんまり嬢ちゃんに絡むな。」
「あの、私、実はお酒は全くダメで・・・。」
そう言って力なく愛想笑いをする歌陽子(かよこ)。
「ダーハッハッハッハ、そりゃ傑作だぜ。いや、そうじゃなくちゃならねえ。世の中よくできてやがる。」
そうバカ笑いをしながら、野田平は歌陽子の背中をバンバン叩いた。
「い、痛い、痛い!」
「目の前に酒がたんまりあるのに、それが飲めねえんだぜ。それじゃ、無いもおんなじだよなあ。」
その時、壁際から日登美の声がした。
「ふわあ、人生そんなものかも知れませんね。」
(日登美さん、いたんだ。
あんまり、静かだから居ないのかと思った。)
「もう少し寝てればいいじゃねえか。」
「いや、騒がしくてオチオチと寝ていられなくなりましたよ。」
「こんばんわ、日登美先生。」
「やあ、ツキヨちゃん。また会えたね。」
「先生の言うことはいつも深いね。」
「別にそんな特別なことじゃないですよ。
そうだなあ。こんな話を知ってますか?
あるところに村はずれに金塊を隠し持っていた男がいたって話。」
「さあ。」
「その男は昼間は仕事をして、夕方に村はずれまで出かけては、金塊のあることを確かめて安心していたんです。
だけど、あまり毎日出かけるものだから、盗人が怪しんでコッソリ後をつけたんですね。」
「うわあ、取られちゃうよね。」
「そう、取られたんです。
次の日の夕方、男は金塊の隠してある場所に行ってビックリ、金塊は盗人によって持ち去られていました。
『誰だあ!盗んだのは!』
大騒ぎして村中を駆け回る男に村人の一人が言った言葉が実に気が利いています。」
「何て?」
「村人は男にこう言いました。
『持っていても使わない金塊なら、ないのと同じじゃないか。最初からなかったと思ったらどうだ』って。」
「うわあ、深い。
だよね、私のお客さんなんかでもすごいお金持ちが来るけど、なんか仕方なくお金を使ってる人もいるもん。お金ってさあ、稼ぐのも難しいけど、使うのもとっても難しいと思うんだ。
持って苦労しているだけで一生終わる人もいるもんね。」
「まあ、ものやお金は生かしてこそって話です。だけど、なかなか生かし方が分からずに困っている人ばかりです。」
「カヨ、お前もいい酒に囲まれてるんだったら、飲み方くらい覚えなきゃもったいねえ。」
そう言って、野田平は歌陽子に無理やり話をこじつけて振ってきた。そして、度数の高そうな高級酒を湯飲みに注いで、
「さあ、飲んでみろ」と歌陽子の目の前にグイッと突きつけた。
「い、いや私は。」
夜のうちに帰りたい歌陽子はなんとか断ろうと湯飲みを押し返す仕草をした。
ところが、
「ああ、めんどくせえ」
と言うや、いきなり野田平は歌陽子の鼻をつまんだ。
目を白黒させながら反射的に口を開けてしまったところに、湯飲みの酒を注がれた。
「もったいねえことすんなよ。」
顎を野田平の肉厚の掌底で押し込まれ、なす術なく喉に火のような酒を流し込まれてしまった。
「ごくん・・、ひっく・・・。」
歌陽子はしゃっくりをすると同時にぺったりと座りこんだ。
「お、おい、嬢ちゃん。のでえら、やりすぎだぜ。」
やがて、ガクリと前のめりに倒れると、前後不覚に眠りこんだ。
「ああ、どうすんだこれ。」
「たった一杯だぞ、だらしねえなあ。」
そして、野田平は喧騒から少し距離を置いて傍観していた安希子に声をかけた。
「おい、メーコ。」
「私ですか?」
安希子は野田平からメーコと呼ばれてムッとしたようだった。
「そうだよ。」
「私は安希子ですが。」
「めんどくせえから、メイドの安希子でメーコだ。」
「私はメイドではありません。」
「やかましい。あのな、それより、この下戸女、絶対に一人で合コンとか行かすなよ。酒一杯で簡単にお持ち帰りされちまわあ。」
「そんなこと、知ったことではありません。」
「おい、おめえ、ホントにメイドか?少しはご主人の心配とかしろよ。」
「私は断じてメイドではありません。」
「もう、いいや。メーコも一杯付き合え。これから、ツキヨの一年分の愚痴を聞いてやるからよ。」
・・・
それから、数時間後。
酒気がスッカリ抜けた歌陽子は、小さくくしゃみをして意識を取り戻した。
「クシュン!」
そして、場の雰囲気がスッカリ変わっているのに気がついた。
あんなに畳に座るのを嫌がっていた安希子が真ん中に陣取り、そこを中心に野田平、前田町、ツキヨの三人が車座になっていた。
日登美だけは、我関せずと言った体で輪から外れて背中を向けて寝ている。
見ると、野田平、前田町、ツキヨの三人はウンザリが極限に達した顔をしていた。
対する安希子はスッカリ目が座って、さっきから三人に向かって何かをブツブツ言っている。
歌陽子が目を覚ましたのに気がついたツキヨは、こっそり手招きした。
それで近くまで来た歌陽子の耳に口を寄せて、
「ねえ、あの人早く連れて帰ってよ。」と言った。
「とうしたんですか?何があったの?」
「冗談じゃないわよ。最初、私が前田パパに愚痴を聞いて貰っていたの。その間、野田ちゃんが、あの人にしきりにお酒を勧めてたのよ。最初はさ、『私、仕事中なので』とか言って断わっていたのよ。でも、あまり勧められるから、つい一口だけってことになったの。そうしたら、急にペースが上がって、たちまち一本飲み干したのよ。それでね・・・。」
「こらあ、そこ何話してる!ちゃんと私の話を聞け!」
「・・・って感じなのよ。私の愚痴を聞いて貰うはずが、いつの間にか割り込んで来て、あの人の愚痴が始まってさあ。それから何時間もよ。」
「あの、どんなこと言ってました?」
「あ、聞かない方がいいわ。特にあんたはボロクソだったもん。」
思わず走る悪寒に、肩をすくめる歌陽子。
ふと、時計を見ると朝6時をかなり過ぎている。
まずい、早く帰らなきゃ。
新年の朝は、家族揃ってないと凄く怒られる。幸いお酒も抜けてるし、すぐに帰ればまだ間に合う。
「さ、安希子さん、帰りますよ。」
歌陽子は、安希子の腕を引っ張った。
「うるさあ〜い、ノータリン。」
安希子は歌陽子の腕を振り払った。
うわあ、女版ノダイラが出来上がっている。
しかし、歌陽子は安希子の前に回ると、真っ直ぐ目を見つめて殺し文句を口にした。
「早く帰らないと、お母様に・・・バレてよ。」
「奥様。」
一瞬、ピリッとした安希子だったが、今度は泣きながらただをこねだした。
「やだあ、こんな酔っ払っているところバレたら余計怒られる。」
「大丈夫です。すぐ帰ってシャワーを浴びればバレません。」
「そうかな・・・。」
まるで歌陽子の母親の志鶴を中心に世界が回っているような安希子は、歌陽子に手を引かれて立ち上がった。
「じゃあ、みなさん、三が日はちゃんと休んでくださいね。」
歌陽子は、みんなにそう言って会社を離れた。
その時、ちょうど新年の暁光が歌陽子たちを朱に染めた。
さて、今年はどんな年になるかしら。
一方、残された野田平、前田町、ツキヨは、安希子から解放された安堵でひっくり返っていた。
「ああ、助かった。」
「全くとんでもねえ、ねえちゃんだ。」
「鍵かけて閉じ込めておきやがれ。」
(#39に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#37
除夜
「まあ、嬢ちゃんと、・・・おつきも入んねえ。」
前田町が、ツキヨと、歌陽子(かよこ)、そして安希子を中に招いた。
「おつきって誰ですか?」
安希子が突っ込みを入れた。
「あんたに決まってるでしょ。使用人なんだから。」
ツキヨの答えに、
「違いますよ。確かに私は東大寺家に雇われていますが、そんな下僕のような立場ではありません。」
「じゃあ、メイド?」
「そんな下世話なものでもありません。」
「あ〜、めんどくさいなあ。」
付き合い切れず、ツキヨは一方的に話を切ってしまった。
「ねえ、お嬢様、おつきですって。」
今度は歌陽子に絡み始める。
「ま、まあ、安希子さん、あんまりそこは気にしても。」
「だって、腹立つじゃありませんか。私の方がお嬢様より下に見られたんですよ。」
ホント、めんどくさい人。
「よお、ツキヨ、久しぶりだなあ。あれ、カヨも一緒かよ。」
作業場横の休憩所に明かりが灯り、そこから野田平が顔を出した。
「野田ちゃん、お久しぶりい。会いたかったあ。」
「お、おう。それより、カヨの後ろのシュッとしたねえちゃん、誰だ?」
「ああ、なんか、あの子んちのメイドさんらしいよ。」
野田平とツキヨの会話を聞き咎めて安希子が文句を言った。
「私はメイドではありません。」
「まあ、どうでもいいや。中へ入んな。」
その間に、前田町は中に入って、女子3人の座る場所を確保した。
休憩室だから、畳も敷いてあるし、布団を敷いて休めるようにもなっている。
遅くまで作業していた技術者が、そのままゴロンと横になる所為か、油の匂いが畳に染み付いている。畳はよく拭かれて不潔ではないが、安希子はその匂いに抵抗感があってなかなか腰を下ろしかねていた。
もう油の匂いに慣れている歌陽子はもちろん、前田町の娘のツキヨも何のためらいもなく腰を下ろしたのに、安希子だけがひとり立ちんぼを続けていた。
「なんだ、メイドのねえちゃん、座らねえのか?」
「私はメイドではありません。」
都度、野田平に言い返す安希子。
「あの、安希子さん、みなさんが気を使われるから座らせて貰いましょう。」
歌陽子が周りに気を使って安希子に声をかける。
「わ、私はこのままで良いです。」
「汚くないから。ほら、私の服も汚れてないでしょ。」
「私は、お嬢様のように無神経ではありません。」
「へえ、このメイドさん言うじゃねえか。なんか、カヨよりよっぽどお嬢様らしいや。」
「私はメイドではありません!」
キリがない。
「それより、ねえちゃん、何抱えてんだ?」
安希子に代わって歌陽子が答える。
「あ、これ。みなさんに差し入れです。その・・・ずっとお仕事されていると思ってましたから。安希子さん、あとは私がするから、もう帰っても良くてよ。」
「お嬢様、私が今帰れるわけないじゃないですか。だいたい、交通手段はどうするんですか?」
「そっか、あ、ポルシェ使ってもいいよ。私はなんとかするから。」
「ダメです。私が奥様に叱られます。」
「だって、辛そうだし。」
「だから、ほっといてください。」
その会話を聞きながら、野田平がボソッと。
「めんどくせえ、ねえちゃんだなあ。」
「でしょ。私もさっきそう思ったの。」
ヒソヒソと野田平と会話をするツキヨ。
そのとき、ふと前田町がしみじみと言った。
「まあ、聞きねえ。心洗われるじゃねえか。」
ゴーン・・・ゴーン。
気がつけば、ずっとさっきから除夜の鐘が鳴り響いていた。
「なあ、嬢ちゃん、なんで除夜の鐘は108つ付くか知ってるか?」
「はい、人間の煩悩の数ですよね。」
「そうだ。欲深な心、腹立つ心、妬み嫉みの心、人を疑ったり、自惚れたり、曲がった見方をしたり・・・、書いて字のごとく、煩わせ悩ませるだ。それが全部で108つもある。そんなんで、今年も一年、泣いたり笑ったり、怒ったり、大変だったろ?嬢ちゃん。」
「はい・・・、ですね。」
確かに今年はいろんな事があったなあ。
いっぱい怒られて、いっぱい失敗して、・・でもとりあえずここにいる。
「除夜の鐘はよ、そんな108の煩悩にまみれた一年を清めて、また新しい年も頑張ろうって願ってつくのよ。な、ツキヨ。」
「うん、今年もいろいろあったけど、除夜の鐘を聞きながら三人に思い切り愚痴を聞いて貰うと、なんかスッキリして、また一年頑張ろうって気になるのよ。
だから、ここが私の除夜の鐘。」
ああ、それで。
歌陽子は急に腑に落ちた顔をした。
だから、三人は毎年ここで年越しをして、ツキヨの来るのを待っていたんだ。
なのに、私ったら、ツキヨさんの外見だけで判断して「おかしなことをしたら許しません」なんて言ってしまって、悪いことしたなあ。
「ちなみに、私の本名は、日向子。日に向かう子って書くの。」
ツキヨが自分の名前を明かした。
「えっ、ツキヨは?」
「ああ、それ?それは源氏名。だって、夜の女が日向子じゃ、おかしいでしょ。」
「でも、実のお父さんに源氏名で呼ばれるのは、かなりへんな気がしません?」
「ううん、本名だとなんか湿っぽくなるから、ここじゃキャバ嬢のツキヨなのよ。」
へえ〜っ。
歌陽子は感心した。
いろんな親子の形があるものだ。
歌陽子と父克徳の形。
泰造と日登美父の形。
野田平と母親の形。
そして、ツキヨこと、日向子と前田町の形。
キャバ嬢の世界に身を置く娘をそのまま受け入れ、源氏名で呼んで支えている、そんな前田町の生き方が不思議だったし、新鮮でもあった。
そのとき、不意に歓声がシンミリした雰囲気を破った。
「う、うおー、なんだこの豪華なおせちは。キャビアに、トリュフにフォアグラだとお。ふざけんな!う、うわあ、なんだ、この高級酒は!龍泉に出羽桜だとお、噂にしか聞いたことがねえ!」
野田平が勝手に歌陽子の差し入れを物色して、その中身にいちいち歓声をあげているのだ。
ああ、この人の五欲は除夜の鐘くらいじゃビクともしないわね。
(#38に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#36
前田パパ
「あ、あの・・・この会社に誰か知っている人がいるんですか?」
もう、年も変わろうとするこの時間、突如開発部技術第5課のある別館の前に現れた、キャバ嬢そのまんまの女性。若い女子二人に悪びれる様子なく、こう告げた。
「うふふ、あのね。わたしのパパがいるの。」
パ、パパって・・・。
「パパって、パトロンのことですか?」
急に安希子が話に割って入った。
こう言う下世話な話は好物らしい。
「歌陽子お嬢様、パトロンですって!なんて破廉恥な会社に勤めてるんですか?」
「しっ!」
「あんたたち、聞こえてるわよ。」
そう言って、キャバ嬢は軽く睨んだ。
ああ、どうか、あの人たちじゃありませんように。
それで、恐る恐る歌陽子が口を開こうとしたその時、先に安希子がズバッと聞いた。
「今、中にいるのは、年寄りが三人だけですよ。その人たちに用事があるんですか?」
「そう、そう、その人たち!」
ああ、ヤッパリ。
歌陽子の嫌な予想は的中した。
しかし、ここは勇気を奮ってどうしても確かめずにはいられない。
だって、仮にも会社内のことであるし、あの三人については歌陽子に監督責任があるのだ。
「あのお・・・、そのパパって具体的に誰ですか?」
あわよくば、そのパパを呼び出して、乱行に及ぶのは会社の外にして貰いたい。
「え・・・っ、それは・・・、あの人!」
クルリと身体の向きを変えて、別館入り口を指差した。
そこには、扉を内側から開いてのぞいた、酩酊した赤ら顔の前田町。
「ま・・・。」と言ったきり固まる歌陽子。
パシャと音をさせる安希子。
「こら、何写真撮ってんのよ。」
キャバ嬢の声に驚いて安希子の方を見ると、彼女はスマホで何かを打ち込んでいる。
「ちょ、ちょっと、安希子さん。何やってるんですか!」
「すぐ奥様に写メします。お嬢様が働いているのは、こんな破廉恥な環境です!って。」
「や、やめてください。そんなことされたら、当分外出禁止になります。」
安希子の企みをなんとか阻止しようと歌陽子は、彼女の腕をつかまえてメールを打たせないように抵抗した。
「は、離してください!これは私の大事な仕事なんです。お嬢様を監視しなくてはならないんです!」
「だから、まだ未遂でしょ。本当にそんなことしたら、写メでも何でもしたらいいじゃない。」
「は、離して!暴力雇い人!パワハラで訴えますよ!」
安希子の金切り声に、それまで黙って聞いていた前田町のゲンコが飛んだ。
歌陽子と安希子に一発ずつ。
「く〜・・・っ。」
「いたあい、このエロオヤジ!」
「おめえら、うるせえ!こんな時間に近所迷惑だ!」
しかし、強面の前田町に、キャバ嬢は甘い声を出して抱きつこうとした。
「パパァ〜。」
「ちょ、ちょっと待てよ、ツキヨ。今、この娘らに帰って貰うからな。それからでいいだろ?な?」
せっかく仕事を頑張っていると思って、こんな時間に差し入れを持ってきたのに・・・何なの、これ!
歌陽子は無性に腹が立ってきた。
「前田町さん、私はあなたの上司としてハッキリ言います。仮にも事務所の中ではおかしなことはやめてください!やるなら、どっか他にして!」
しかし、何を子犬がキャンキャンと、と言わんばかりにツキヨと呼ばれた女性が言い返した。
「バァカ、何言ってんの、私はね、前田のパパには散々抱かれてきた仲なんだから!赤の他人のあんたが口出さないでよね。」
「く・・・っ。」
「こら、ツキヨ、泣かすんじゃねえよ。この嬢ちゃんはこう言うのに全く耐性がねえんだからよ。」
「じゃあ、ガキは黙ってろっての。」
「はあ・・・嬢ちゃん、すまねえ。実はな・・・。」
「ま、前田町さん・・・あの、あなたたちは本当にそう言う仲なんですか?」
「そう言う仲ってなんだよ?」
「だから、散々抱かれたって言うか、他人じゃないって言うか・・・もう!言わせないで下さい!」
「忙しい嬢ちゃんだなあ。泣くか怒るか、どっち泣くかにしろい。まあ、そのなんだ、20年以上前の話だ、散々抱いたのは。」
「それって、まだ小学生の頃じゃないですか?」
「ああ、そりゃそうだ、なんせ、ツキヨは俺の実の娘だからよお。」
抱かれたって、そのまんまなの。
「だから、他人じゃないって言ったろ、バァカ。」
ツキヨはペロリと舌をだした。
そして、歌陽子の顔はみるみるうちに恥ずかしさで真っ赤になった。
「私はわかってましたよ。不純なことを考えていたのは、お嬢様だけですね。」
と、調子の良い安希子。
だいたい、破廉恥とか騒ぎ出したのはあなたでしょ!
でも、でも、でも・・・
「ややこしい言い方、しないでください!」
歌陽子は、泣いて真っ赤になった鼻のまま怒りだした。
パシャ。
「え・・・っ、安希子さん、何を撮ってるんですか!消去して下さい!」
「やですよ、私の変顔コレクションだもん。」
「あんた悪だねえ。」
別館前で小競り合いをしているうちに、晦日の夜は更け、いつの間にか除夜の鐘が低く鳴り響いていた。
ゴーン。
(#37に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#35
キャバ嬢
歌陽子(かよこ)は、新年の準備に作ってあったおせちを厨房で詰めて貰い、日本酒も何本か抱えて出かけようとした。
玄関近くにある母親のリビングの前を通る時、遅くに荷物を抱えて出かけようとする娘を母の志鶴は見とがめた。
歌陽子は、母親のことを旧家の出だと聞いていた。ただ、母方の祖父母に会う時も、そんなに特別な人たちとは思えない。
祖父は会社役員を務めていたが、50人程度の中小企業だし、祖母もその辺にいる普通のおばあさんと言う感じだった。
そもそも父親との馴れ初めは20数年前、グループの末端の研究機関に来ていたインターンだったと言うから、普通のリケジョだっかも知れないし、ひょっとしたら、口うるさい親族を納得させるために、何十代前の家系図からこじつけて旧家の出にしたのかも知れない。いずれにしろ、詳しいことは聞かされていないし、また聞いても教えてはくれなかった。
しかし、志鶴という古風な名前とあいまって、家風にすっかり馴染んでいる彼女を誰もが東大寺の嫁と認めていた。
ただ、娘の歌陽子が庶民的な感覚を持っているのは、母親の出自と関係しているのかも知れない。
「歌陽子、どうしたの、こんな夜更けに、そんなに着込んで?それに、なんですか、その荷物は?」
「お母様、その、ちょっと仕事で。」
「仕事って、もう年が変わるじゃないの?」
「ですけど、みんな頑張ってくれてますし、少し陣中見舞いと言うか。」
「お父様からは聞いていますけど・・・。それにしてもお友達はまだ学業に専念していると言うのに、どうしてあなただけ人と違うことをしたがるのかしら。」
「お母様、それはまたうががいます。」
「ちょっと、待ちなさい。誰かを付き添わせるから。」
「え、それは・・・。」
「そうだ、安希子さん、ちょうど良かった。今日は泊まりでしょ。歌陽子について行って頂戴。」
そこを通りかかったハウスキーパーの安希子、実は歌陽子の大の苦手。
この間、フェラーリを引き取って貰ったときも、さんざん嫌味を言われた。
しかし、安希子は志鶴の前ではそんなところをおくびにも出さない。
「はい、畏まりました、奥様。」と丁重に承って、歌陽子が手に持った荷物を引き受けた。
「気をつけるのよ。」
「はい。」
「行って参ります。」
志鶴と挨拶を交わして、二人は玄関を出た。
「いいこと、用事が済んだらすぐ帰るのよ。」
もう一度志鶴の念押しが飛んできた。
そして、歌陽子と安希子はガレージを開け、通勤用の白いポルシェに乗り込んだ。
ヘッドライトに先導され、一路東大寺邸から三葉ロボテクへ夜の道を辿る。
「お嬢様。」
助手席で向こうに顔を向けながら、低い声で安希子が言う。
「な、なんですか?」
また、いつもの嫌味が始まるのかと身構える歌陽子。
こちらを向いてニッと笑う安希子。
この状況では逃げられない。
「わたしね、今日見たいテレビがあったんですよ。なのに、どうしてくれるんですか?」
「そ、それは録画とかしてないんですか?」
「年越しの特別ライブですよ。わたしの大切なアイドルグループの。そんなの録画で見たら台無しじゃないですか。」
「そ、そんなあ。そんなこと言われても。」
「埋め合わせしてください!」
「じ、じゃあ、そこで止めますから、好きなところで好きなもの見てきてください。」
「ダ・メ・デ・ス!わたしはお嬢様の監視で特別手当を頂くんです。なのに、サボって遊んでいるわけには参りません。」
もう、どっちなのよ〜。
この人、単に私をイビルのが楽しいだけじゃないの?
「だいたい、歌陽子お嬢様は、男の人とか興味ないんですか?」
「私、ずっと女子校だったから。」
「だからですよね。いつまで経ってもおぼこいのは。」
「別にいいじゃないですか。私は私です。」
「そうそう、いるんですよね。実は、コンプレックスの固まりで、男の人に怖くて近づけない、一生生娘のままみたいな、イタイ人。」
「もう!私普通に男の人と働いています。」
「あっはっは!知ってますよ。みんな定年間近のおじいちゃんばかりでしょ。そりゃ、旦那様が安心して通わせる訳ですよね。」
見てらっしゃい。あの人たちに会って、そんなこと言っていられるかしら。
そうこうしているうちに、ポルシェは三葉ロボテクの駐車場に着いた。
口は悪いが、一応ハウスキーパーの仕事はきっちりする安希子は、歌陽子に荷物を持たせるようなことはしない。
それどころか、荷物を抱えながら大股でどんどん先に行く。
「お嬢様、遅おい!」
「すいませ〜ん。」
少し小走りになってついていく歌陽子。
そして、開発部技術第5課の入っている別館に近づいた時、建物の前に誰か佇んでいるのに気がついた。
その人影は、二人に気がつくと向こうから声をかけてきた。
「あのお、あなたたち、ここの人?閉まっていて開かないのよ。早く開けて頂戴。寒くて凍えちゃう。」
そう言う相手を歌陽子は二度見した。
毛皮の下のミニスカートから網タイツの足がのぞいている。長い付けまつげと濃い口紅、そしてプンと鼻をつく香水。
明らかにアラサーのキャバ嬢だ。
まさか、あの人たちデリバリーでも頼んだの?
(#36に続く)