今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

いっそ愚直に(後編)

(写真:柿田川の流れ その1)

開眼

「シュリハンドクよ。そなたに仕事を与えよう。箒で一心にこの場所を掃くのだ。そして、こう唱えよ。
『チリをはらわん、アカをのぞかん』と。」

与えられたのは、わずか数部屋ほどの狭い場所であった。
しかし、その日からそこが私にとって大切な聖域となった。
その場所を隅から隅まで箒で掃いて、行ったり来たりしながら、教えられた『チリをはらわん、アカをのぞかん』を唱え続けた。

しかし、生来の呆けものの私は、その短い言葉さえ満足に覚えることができなかった。

ある時、箒を抱えてもじもじしている私に仏陀が声をかけてくだされた。

「どうしたのだ、シュリハンドク。」

「申し訳ありません。『チリをはらわん』の後がどうしても思い出せないのです。」

「そうか。」

そして、仏陀は何も仰らずに残りの半句を教えてくださった。

「よいかな。シュリハンドクよ。『チリをはらわん、アカをのぞかん』じゃ。さあ、唱えてみよ。」

「有難うございます。『アカをのぞかん』でした!え・・・。」

「どうしたのか?」

「あ、『アカをのぞかん』の前はどのようなお言葉でしたでしょうか。」

こんな調子であった。
しかし、そんな私に仏陀は根気よく『チリをはらわん、アカをのぞかん』を教え続けてくださった。
それも、何年も何年も、同じやりとりばかり繰り返していたのだ。
しかし、一度だけだが、仏陀が私のことを褒めて下さったことがあった。

「シュリハンドクよ、お前は同じことを何年繰り返しても少しも上達しないが、それに腐らず私の言うことを守ってよく続けている。
それは、他の弟子に見られぬ殊勝なところだ。」

それは私にとって、まことに勿体の無いお言葉であった。
そこで、叶わぬまでも少しでも御心にかなうよう、より気持ちをこめて掃除に励んだ。
狭い場所であったが、『チリをはらわん、アカをのぞかん』を唱えながら、それこそ舐めるように隅から隅まで掃いて回ったのだ。
そうしたところ、いままで見ることができなかったものが見えてきた。
それまで、隅から隅まで掃き清め、チリひとつ無いと思っていたのに、気のつかないところに意外にチリが積もっていたのだ。
そして、こんな声が百雷のように私の耳に聞こえてきた。

「きれいだと思っているところに、こんなにも気がつかないチリや汚れがたまっているではないか。自分のことを愚か者と思っていたが、気づかないところで、どれほどバカで愚かなところがあるか、知れたものでないぞ。」

そして、その時、頭の靄が晴れ、広い世界が私に飛び込んできた。
ついに、大悟が徹底したのだ。

愚直こそ尊い

そこまで、話してシュリハンドクは深く息を吸い込んだ。その聖者の立てる低い喉の唸りが、朝の清浄な空気を震わせた。
そして、
ふううと長い息を吐き出した。

「シュリハンドク様、あなたはどれくらい長く仏陀に与えられた聖語を唱えながら掃除三昧で過ごされたのですか?」

「そう、いつの間にか20年が過ぎておった。」

「20年も・・・ひたすら『チリをはらわん、アカをのぞかん』と唱えておられたのですか。」

「呆れたかな。」

「い、いいえ。なんと言うか、恐ろしいまでに愚直なお話です。果たして人間がただひとつ事にそこまで打ち込めるものなのでしょうか。」

「いや、私にはそれしかできなかった。だから、それをひたすら繰り返すしかなかったのだよ。まさに、仏陀は私のことを深く見抜かれて、もっとも相応しい、そして私にしか出来ない行を授けて下さったのだ。」

ドゥスタラは、一呼吸を置いてシュリハンドクに尋ねた。

「私にもできるでしょうか。私は他のお弟子の皆さんと比べてましても、意気地も根気もありません。とても私の進める道でないと気持ちがくじけそうになります。」

「仏意計りがたしじゃ。仏陀のご教導に間違いがあろうか。私がその生き証人だ。
できるできぬより、ただ愚直にやって見なされ。押しても引いてもビクともしない壁も、たゆまぬ精進で崩せるものなのだ。」

「どうか、このような愚鈍なものではありますが、よろしくお導きください。」

「心得た。
さあ、そろそろ朝餉の支度にかかる時刻じゃ。精舎へと参ろうか。」

「はい。」

そうして、二人の仏弟子は、座禅を解き立ち上がると、いまは銀色へと転じたまばゆい朝の光の中に溶け込んでいった。

(おわり)