今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

心の小さなエゴ

(写真:よるの難波 その2)

謹厳な武士

ある時、謹厳な武士が若党を連れて旅をしていました。
ふと気づくと一緒にいたはずの若党の姿が見当たりません。
はて、どうしたのか?と暫く足を止めて待っていると、やがて遅れて若党が駆けてきました。

「申し訳ありません。お待たせしました。」

「どうしたのか?」

「はい、実は草鞋の緒が切れて直しておりました。」

「直すのに使った藁はどうした?」

「畔のはざから抜いて参りました。」

「それは、持ち主に断ってのことか?」

「いえ、黙って抜いて参りました。しかし、誰でもしていることですし・・・。」

「ならん!他のものは良くても、わしはそんな根性は許さん。すぐに持ち主に断って参れ!」

そうして、若党を持ち主に許可を貰いに戻らせたと言います。
しかし、はざから藁を数本抜いたところで、分かるものではありません。はざに掛かっている藁束を全て持ち去った訳でなし、少々この武士は潔癖に過ぎるのではないでしょうか。

これくらいが身を滅ぼす

「これくらい」
「たいしたことない」
「誰でもやっいる」

私たちは、よく自分にそんな小さな言い訳をします。
公ものを私用で使うとか、僅かなものだからと持ち主に断らずに勝手に持ち去るとか。
私たちのそのような気持ちは小さなエゴです。
しかし、最近そんな小さな気の緩みで身を滅ぼす事例に事欠きません。
軽微なことでは、お店の電源を勝手に使っていたら、窃盗罪で書類送検されたとか。
実刑ではないにしろ、窃盗罪で前科がついてしまいます。
あるいは、お店の冷蔵ボックスに寝転んで友達に写メをしたところ、その友達が面白がって拡散。たちまち日本中の知るところとなり、店は閉店。彼はお店から損害賠償を請求され、また顔が知れ渡って社会的制裁を受けました。
これくらい、大丈夫。
誰でもやっている。
自分なら上手くやれる。
そう自惚れていた人間が運転中にゲームをしていて子供を轢き殺し、あるいは飲酒運転で他の家族の命を奪ってしまう。
もちろん、最悪そんな大変な結果になるとは分かっていたでしょう。
ただ、それが自分に起きるとは分からなかった。
「これくらい」と言う小さなエゴは、まさに破滅に導く悪魔の囁きであります。

0.99と1.01

謹厳な武士には、人間のそんな弱さと危うさが身にしみて分かっていたのだと思います。
だから、若党の「これくらい」が許せなかったのでしょう。
また、この武士の厳しい指導あればこそ、若党はこれからも道を誤らずにまっすぐ生きていけるのです。
さて、小事をついつい軽く考える私たちは、その小さな積み重ねの結果に気づいていません。
分かりやすい話をします。
例えば、人より1パーセントだけ頑張る人。1.01の努力をする人です。
対して、人より1パーセントだけサボった人。0.99の人です。
これを一年後に比べてみると、1.01の人は4.65になっています。0.99の人は-2.65です。そして、その差は7.3も開いてしまいます。
小さいからと侮れません。
今は小さな心のエゴも積み重なるとたいへんな結果を招くのです。

孝行息子のフリでも良い

では、自分のエゴに負けないためにはどうすれば良いでしょうか。
それについて、ある話が伝えられています。
ある時、水戸光圀が領地の視察に出掛けました。
水戸光圀はたいへんな親孝行で知られ、また孝行者を見ると沢山の褒美を取らせました。
それを知ったある男が、光圀一行の前に母親を背におぶって現れました。
それを見た光圀はすぐに配下に「あの者に褒美を取らせよ」と命じました。
しかし、配下は「あの者はこの辺りでは有名な親不孝ものです。褒美欲しさにあのように孝行息子のフリをしているのです。決して褒美など与えてはなりません」と注進します。
しかし、水戸光圀は「フリでも良い。今日一日だけでも良い。あのように親孝行の真似事でもするのが良いのだ」と答えたと言います。
私たちは心にエゴを抱え、いつの間にやら悪を恐れることに疎くなっています。そんな時、良い人に親近し、真似でもしていくことで自ずと正されていきます。
「善人の敵とはなるとも、悪人を友とすることなかれ」であります。
悪を好むのが私たちの本性なので、努めて悪い交わりを避け、謹厳な武士や水戸光圀のような正しい人に親近したいものです。