今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

志光性

(写真:雲間を航く月 その1)

■光と闇

世の中、光もあれば、闇もある。
私たちが生きているのは、光の側の世界です。安全で、健康的で、善意に満ちて、人権が保障されています。
対して、それに寄り添うように闇の世界もあります。
分かりやすいのは裏社会でしょう。
普通に街を歩いているときは気がつきませんが、行きつけのコンビニが強盗に襲われていたり、いつも通る路地で危険ドラックの売人が検挙されたり。抗争事件が報道されると、意外と近くに渦中の事務所があったりします。
企業犯罪もそうですね。表面は至極まっとうで、健全な企業として評価されていたのに、思わぬ偽装や人権を無視するような実体が暴かれ、内部の闇がさらされる。
見えている光の部分は、本当に社会の一部だけなのだと知らされます。そして、その光の部分を支えるように、闇が私たちの目の届かないところで蠢いています。

■光を求めながら、闇に流される

よく友達とは、
「僕らの会社は、悪いことをしなくて済むのが有難い」と言いあっています。
最近の世の中の流れもあるでしょうが、多くの会社が法律や世間の常識に対して、潔癖であろうと努力しています。むしろ、私たちの方が息苦しくなるくらいです。
しかし、今まで評価を受けてきた企業が、偽装や粉飾、悪い労働環境で、急に世の中の批判の矢面に立たされることがあります。
収益や、拡大を実現する中で、どうしても選択せざるを得なかったこともあるでしょう。
あるいは、経営者の目の届かない現場で常態化してしまったこともあるでしょう。
どう読めば良いのか迷う情報に「生産者が決して口にしない食品リスト」と言うものがあります。それを真受けにしたら買うものがなくなってしまいますが、もしそこに書かれていることの一部でも真実だとしたら、提供企業は消費者を裏切っていることになります。
情報化社会で、そんな話が溢れる中、まっとうな光の中だけで仕事をさせて貰えるのは有難いことです。
よく、悪質業者の報道がなされますが、せっかくお客さんに喜んで貰おうと仕事についたのに、その業務自体がお客さんを苦しめることになっているのは、やり切れませんね。
まさに、光を求めながら、闇に流されてしまった人たちです。

■すぐそこにある闇

企業だけでなく、私たち一人一人のそばに闇は口を開けて待ち構えています。
たとえば昨日、とあるレストランに行ったのですが、そこのメニューにドリンクバーがありました。
ドリンクバーを頼むと、「どうぞご自由にご利用ください」と言われます。
あとは、普通の水飲み用のグラスに、ディスペンサーでいろいろな種類があるジュースを注げば、それがドリンクバーです。
ですから、いわゆるズルをしようと思えばいくらでも出来てしまいます。
つまり、ドリンクバーは飲み放題なので、一つのコップで家族全員がまわし飲みすれば、一人分の料金で全員が飲み放題です。
あるいは、水を飲んでいたコップを持参して、ディスペンサーを利用する。そして、後できれいにすすいでおけば分からない、と言うズルもできます。
つまり、このドリンクバーは善意を前提にしていますから、そんなことを入れ知恵されたら、心が動く人もいるでしょう。
小さなズルの誘惑は、いろんなところに潜んでいますし、また実際にそれをする人もいます。
ですが、ズル、つまり悪の怖いところは麻痺性があって、だんだん大きなズルをしてもなんとも思わなくなります。
最後、行くところまで行って、破滅するまで気が付かないでしょうね。
このように闇はいたるところに口を開けて待っているのです。

■幸せな人生

結局、幸せな人生とは、闇に陥らない平穏無事な人生です。
そう言えば、有名な西洋の諺に、「1日幸せでいたいなら、床屋へ行け」から始まるものがあります。
そして、その最後が「一生幸せでいたいなら、正直であることだ」で結ばれています。
1日なら、床屋。
1週間なら、車。
1ヶ月なら、結婚。
1年間なら、家。
ですが、とかく移ろいやすい人の心で、私たちを一生幸せにしてくれるものはあるのでしょうか。
その答えが、「正直」と聞けば、へえ、とは感心しますが、なかなか実感が湧きません。
でも、正直でいられず、小さなズルの誘惑に負けて身を滅ぼす人が多くいます。そして、誰もが常にその危険にさらされています。
世間のものさしで競いあって、少しでも大きく、長く、遠くへと躍起になっていますが、結果的にそうなるならまだしも、そこを目的にズルをして闇に呑まれては残念です。
願わくば、幸せな一生を。
そのための必要条件は正直さです。
何者になれなくても、正直でありたい。
実態は、ズルの固まりのような自分でも、かなうならそんな正直者でありたい願っています。
人間には、光に向かう性質、「志光性」があるのですから。