今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

真の優秀さ

(写真:青空がらす)

■山月記に学ぶ

中島敦が、中国の変身奇譚を題材にして書いた小説「山月記」。
主人公は、非常に優秀だが、反面気位も高い李徴。せっかく官職を得ながら、自分の気位故に職を辞し、野に下って詩で身を立てようとする。
しかし、詩作に励むも、決して詩壇に交わり、仲間と切磋琢磨しようとはしなかった。
していたことはただ、仲間の詩をこき下ろして、「自分ならもっと上手く作れる」と批評しているだけだった。
そんな彼が、急に姿をくらました。
その李徴の数少ない友が官吏の袁傪だった。李徴が姿をくらましてしばらく後のこと、人喰い虎がでるから夜の山越えは控えるよう止められるのを、急ぐ旅だからと振り切って、袁傪一行は夜の山に入る。
そこに、急に一匹の虎が襲いかかった。
しかし、虎は直前で身を翻し、繁みに姿を隠した。
そして、その繁みからは「危ないところであった。友を食らうところであった。」とつぶやきが漏れてきた。

■「臆病な自尊心」、「尊大な羞恥心」

袁傪には、その声に覚えがあった。
それは行方不明になった友、李徴の声ではないか。
袁傪に呼びかけられた繁みの声は、自分をかつての李徴と認める。
だが、今は故あって姿が見せられぬと言う。
そして、李徴はわが身に起こった怪奇譚を語り始め、ついには自らの身が虎に変じた事を明かす。「先ほど、君を喰らおうとした飢えた虎こそが我なのだ。」
何故、このような浅ましい姿に身を落としたのか?
それを、李徴は自分の「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」故と言った。そして、この二つの心が、自分を人ならぬに獣の身に落としたのだと、さめざめと泣くのだった。
〜・〜
「臆病」と「自尊心」、「尊大」と「羞恥心」、一見相容れない単語を並べて、李徴は自分を表現した。
どんな意味だろう。
臆病な自尊心とは、プライド故に臆病にならざるを得ない心。人に負ける自分が許せない、人を下に眺めなくては生きてはいけない。しかし、本当は自分に詩作の才がないかも知れない。人と交わるとそれを思い知らされるから、皆から距離を置いて自分を守らずにおれない臆病さを言う。
尊大な羞恥心とは、内面に人に対する負い目を持ちながら、必死にそれを隠そうと敢えて尊大に振る舞う。周りはそれを傲慢と言う。だが、むしろ李徴の心は周りに対する羞恥心で満ちているのだ。

■原石も磨かなくては意味がない

李徴は、優秀な人物に描かれている。
確かに子供の頃、自分の周りにも神童と呼ばれる人間がいた。
しかし、かつての優秀な人たちが、今でもエリートとして世の中を引っ張っているかと言えば、そんな人ばかりでない。
若い頃の優秀さとは、言わばダイヤの原石のようなものだろう。付き合っていて非凡さを感じるものの、それだけでは世の中で光る存在とはならない。原石も磨いてこそである。
しかし、ともすると優秀過ぎる人間は、自意識が強くなって自分に固執する。人と交わると、その自意識を崩されるように思い、敢えて周りから距離を取る。故に磨かれる機会を自ら放棄するのではなかろうか。
反対に、過剰な自意識を抱えずに済んだ人間は、気軽に人の交わりに出て行くことができる。そして、世の中の広さを知り、上には上があることを知る。果たして、その度に自信を崩されて一時はへこむが、また新たに目標を設定して、凄い人に近づけるよう切磋琢磨する。
つまるところ、優秀な原石でも自意識に溺れて磨くのを怠れば光らず、凡庸な石でも、それを自覚して磨き続ければ光を放つ。

■磨く場を心がける人

だから、真の優秀さとは、頭の良し悪し、才能の有無によらない。
なまじ、才気に恵まれると、かえって成長の邪魔になることがある。
同じように、なまじ成功体験や、組織での評価など、自分にとって誇りとしているものがあると、更に上を目指すのに臆病になる。
成功している人、また評価を得ている人は、自分がナンバーワンであることに優越感を感じる。しかし、外に目を転じれば、まだまだ自分など至らないと思い知らされる。
それが耐えられなくて、外に目を向けることを怠る。ライバル研究の手を抜く。そうすると、自分がガラパゴス状態になっていても気がつかない。そして、やがて市場から退場を迫られる。
なまじの成功が、人間を愚かしくする。
だから、自分の至らなさを感じて、度々ヘコんでいる方が余程安心である。
人間は、優越感を感じていられると安心する。対して、負けていると不安だし、不幸だ。
だが、その不安感あれば、努力しようと言う心も起こるし、向上しようとする。そして磨かれる。
本来、磨かれること自体は痛いし、苦しい。しかし、心がけてその場に自らを引き出し、磨く縁を求める人となりたい。