今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

自分の枠で世界を見ない

(写真:京都市茶屋町 その1)

■窓枠が広い人、狭い人

よく報道されている頑張っている人や、歴史上の偉人を、安易に批判する人がいる。
また、ネットで、有名人のことを散々こき下ろす人もいる。
誰が聞いても、独りよがりだね、とか、情報が偏っているね、と分かる。しかし酷い中傷は聞いていて気分の良いものでない。
ましてや、当人が聞いたらどう思うだろうか。そんな根も葉も無い、と毅然としていられる人の方が稀なのではなかろうか。
反対に、そんな中傷に対して、冷静にたしなめる人もいる。
そんなにイジメたら可哀想でないか、と言う判官贔屓ではない。
中傷する人より、非難の対象となった相手の大きな部分が見えているのだ。
中傷に終始する人は、「昔より結果が出せていない」とそれのみを言い、擁護する人は、「ずっとそれなりの結果を維持するためにはどれほどの努力をしなければならないか」と裏の見えないところまで視野に入れる。
つまり、人間が人間を見る時の窓枠の大きさの違いである。

■自分という窓

その点、自分の窓枠はつくづく小さいなあ、と反省ばかりしている。
人の情けない部分、ダメな部分が大好きで、すぐそこに窓枠を当てはめる。
当然、頑張っているところ、素晴らしいところは、窓枠からはみ出て目に入らない。
そして、窓から見えるダメな部分だけで、アイツよりは余程マシと悦に入る。
努力しなくて良い理由にしている。
だが、ある時、少し窓枠がズレて相手の本当に素晴らしいところが目に入ると、「自分は一体何をしていたんだろう」と深く反省の念に苛まれること、一方でない。

■一見四水

名人の仕事の真価を知るのは、やはり名人だと言われる。
一時期から、骨董品がブームで、古物鑑定を専門に取り扱ったテレビ番組はずっと根強い人気がある。
しかし、番組で評価額1000万と言われても、サッパリその価値が分からない。
所持者が自分の所へやってきて、100万でお譲りしましょうと持ちかけても、とても買うことはできないだろう。
やはり、古物の価値を知るのは、造詣の深い愛好家か、専門の鑑定士と言うことなのだろう。
同様に、同じものでも、その人、その人の知識や経験、置かれている立場でまるで価値や意味が変わって見える。
古来、一見四水と言われる。
一つ、魚は、水を住み家と見る。
二つ、人間は、水を飲み物と見る。
三つ、餓鬼は、水を炎と見る。
四つ、天人は、水を瑠璃と見る。
水という同じものでも、その境涯によって受け取り方が全く変わるのだ。
受け取り方、つまり窓枠の広さは、その人間の大きさに比例している。

■自分の枠で世界を見ないこと

自分の枠は小さい。
ついつい、自分の都合の良いように、自分が努力しなくて良いように世界を見る。
例えば、後輩が新しい技術を勉強している。
もちろん、言っていることは浅いし、形になるまでにはまだまだだ。
「やっと、画面に『hello world!』って出せたんですよ。」
実用化はまだまだだな、と思っていたら、半年後、製品の雛形になるものが出来上がった。なんと、1年後には製品発売も間近のレベルまで仕上げてきた。
あれっ、いつの間に。
1年間、着実に努力した後輩に対して、その間何をしていたのか、と自分が恥ずかしい。
自分の狭い窓枠の中には、1年前の、あの未熟な技術者しか見えていなかったのだ。
その窓枠から見て安心して、その枠から見えない影の努力を無視してきた。
「男子三日会わざれば刮目して見よ」
それだけでない。
都合の悪い相手の、本当に人間的に優れた面や、下に見ていた相手の尊敬できる美点など、窓枠から見えていない部分が世界には多い。
自分の窓枠だけでなく、それ以外の部分にも思いを馳せて、本当の世界の姿を知りたい。