今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

今がその時

(写真:綿菓子イブニング)

■いつか、いつかで20年

一年には、節目が3回ある。
一回目は、元旦。
大晦日に除夜の鐘を聞いていると、厳粛な気持ちになって、「ようし新年こそは」と言う気持ちになる。
あるいは、年末から年賀状をしたためながら、前向きなことを書いているうち、だんだん新年に向けてポジティブな気持ちが醸造されてゆく。

二回目は、期の初め。
大抵は4月。
桜が咲いて、世の中入学式モードなので、その雰囲気に高揚する。
また、上から今期の目標が降りてきたり、自分も目標を立てて「もう一踏ん張り」と気持ちを新たにする

三回目は、自分の誕生日。
否応なく、自分の年齢を自覚するから、「そろそろ、いい加減俺も」と反省させられる。
Facebookからも、「お誕生日おめでとうございます」がたくさん届いて、少し気分が高揚する。そして、前向きな気持ちにもなる。

だが、なかなかその決意は続かない。
そんなだいそれたことを考えているわけでない。
字が上手くなりたい。
ダイエットしよう。
悪玉コレステロールを減らそう。
プレゼンが上手くなりたい。
商品知識を磨いて、社内の誰よりも詳しくなろう。
今年こそ、結婚を。
ちゃんと、親孝行しよう。

忙しさにかまけて、ついついおろそかにしていると、あっと言う間に20年経っている。

■気がつきゃ、臨終

20年前と今の自分。
何が変わった?
そりゃ、いろいろ変わったさ。
結婚したろ。
子供も生まれたろ。
体重が10キロ増え、髪の毛はかなり薄くなった。

じゃあ、その変化は、自分にとって予定通りのロードマップなのか。
思い描いていた自分に少しは近づけたのか。
むしろ、自分自身は20年前と何も変わらずに、環境だけが変化したのでないか。

じゃあ、今の自分のままで満足して死ねるか?

何を藪から棒に、と言うことなかれ。
あと、20年経った時の自分の年齢を考えてみたら良い。
親の年齢に近いだろ。
しかも、その親がもう亡くなっている人もいるじゃないか。

今まで20年が夢のように過ぎてしまったから、これから20年も同じである。
気がつきゃ臨終。
今のやり残した感一杯のまま、この世を去るとしたら、どう?
そして、それが殆どの人の現実ではないのか。

■今の自分がターゲット

ハリウッド映画『RED』。
あのブルース・ウィリスが年金暮らしの老人役で出演していた。
ダイハードも、もう老人か。
そりゃ、ダイハードの1作目から25年が立つんだもんな。
当のブルースだって、今年還暦だし。
あっ、それだけ俺も歳を取ったのか、と気づく。
一生なんて、夢の如しである。

ある人が言った。
「来月からダイエットするんだ、と言う人は一生痩せられない。本気の人は今日からダイエットを実践する。」
「来月から」は、言い換えれば「条件さえ整えば」である。
本当に、来月になれば、いつも楽しみにしているスイーツが我慢できるようになるのか。
あの大好きなラーメン屋での一杯を止めらるか。
むしろ、体重計や、健康診断の結果の残酷な通告に気持ちが落ち着かなくて、自分を納得させるために「来月」と希望的未来を設定しているだけではないのか。
それでは、「今日はもう眠いから、残った宿題は明日早起きしてやる」と言っているに等しい。
いわゆる、「明日の自分はスーパーマン」症候群である。
しかし、朝にギリギリまで寝ていて、宿題をやらずに学校に駆け出すのが常でなかったか。

未来は今の延長である。
今何の種も蒔かずして、未来が変わるはずがない。
放っておいて未来にスーパーマンの自分は現れない。
だから、来月に立派な計画の実践を目論むより、今できることをする。
今、蒔いた種は、間違いなく次の瞬間の自分を変える。
次の瞬間変わった自分の種蒔きは、また次の次の自分を変える。
そして、理想とするスーパーマンの姿に徐々に徐々にではあるが近づいて行くのだ。

ターゲットは、今の自分である。
未来の優れた、優秀な自分ではない。
そんな自分は永遠に来ない。
例えば、好きな子がいれば、「自分がもう少ししっかりしたら」とか考えずに、すぐにアタックしたら良いのだ。
すると何か変化する。
好意を持たれるか、嫌われるか、スルーされる。
でも、変化は後退じゃない。
変化したことは前進なんだ。
恐れず、怯まず、結果にとらわれずに、着実に今できることを積み重ねるだけである。