今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

自分の価値

(写真:錦、黄昏れ前)

■近すぎて見えないもの

見えないもの。

遠すぎるもの。
マゼラン星雲とか、アンドロメダ星雲とか。
人工衛星も、成層圏の上あたりだけれど、よほど条件が揃わなければ見えない。
つまり、遠すぎるものは見ることはできない。
当たり前か。

あと、見えないもの。
近すぎるもの。
自分の顔とか。
いつも、自分の顔が見えていたら、誰も変顔とかしなくなる。
心の中では、自分の顔はちょっと男前に脳内変換している訳だし、臆面もなく、イタイ決めポーズもできる。
だから、鏡で自分の本当の顔と対面すると、ガッカリして、丹念に髪型を整えたりして。

鏡に映るものはまだいい。
鏡に映らない、自分のパーソナリティ、内面、人格は、どうしても見ることができない。

人のことは、よく分かる。
特に、悪いところや、弱点なんか。
でも、自分のこと時なるとお手上げ。
常に人の評価に頼らざるを得ない。
人が褒めてくれると、オレは良い人間と安心し、人が中傷してくると、悪い人間と落ち込む。
人が寄ってくると、オレは人気者だと舞い上がり、人が離散すると、生きている価値がないと死にたくなる。
「ライオンは謗られてもライオン、豚は褒められても豚」
人の評価で、自分の本当の価値は決まらないと分かっていても、朝から晩まで引きずり回されている。
名誉欲の悲しさなのか。

■自信の実態

「自分」は見えない。
顔かたちや、服装は目に見えるけれど、本当の自分は見えない。
ちゃんと見えていれば、そんなに人の言葉に一喜一憂することも要らないはず。
「あっ、ご飯粒ついてるよ」と言われて、慌てるのは、自分の顔が見えないから。
でも、鏡に映せば、ちゃんと目に見えるから安心できる。
でも、本当の「自分」は鏡に映らないから、とてもたいへん。
そして、とても大切。

本当の「自分」、それが分からないなら自己分析でもしてみる。
そして、その分析結果が、「自信」という自己評価である。
「自信」があるとか、「自信」がないとか。
今は、「自信」を持っている人が少ないと言われる。
そして、「自信」を自分自身以外の、自分の所有物に求めようとする。

出身大学、勤務先のネームバリュー、過去の実績、社会的ステータス、家柄、あるいは容姿。
また、自信はお金で買うことができる。
高級車、高級マンション、装飾品。
最近なら、携帯やパソコンの最新機種を誇る。
つまるところ、「自信」を維持するために、お金を使う。そして、お金を稼ぐのは人生のは時間だから、「自信」のために命の時間を費やしている。

世の中は、そのように成立している。

■裸の自分の価値

自分が所持している財産、所属、家柄、社会的ステータス、肩書き、特定分野の知識、そしてレッテル。
我々にとって、それが自分の価値の根拠。
悲しいかな、人間は自分では自分の価値を決めきれない。
もっと酷いのは、自分で何も誇れるものがない人は、自分より持たない人を求める。
人と比べて安心しようとする。自分はまだまし、と自分の自信に変える。

つまり、人と比べて初めて喜ぶ。
助手よりも、助教授、助教授よりも教授。教授よりも学長。
出世することは良いことだと無邪気に思っているが、そのために支払う対価(精神的、肉体的苦痛)は、人より少し良い生活ができるくらいでは見合わない。
つまり、そこに自分の価値が絡んでくるから、無為な一生であったり、いてもいなくても良い存在と思いたくなくて、皆んな頑張る。

それ自体は良いことだと思う。

でも、反対に自分より上の人間が前に現れたらどうだろうか。
たちまち、青菜に塩の例えで、自分の価値がつまらなく思えないか。
ましてや、特に社会的ステータスは、人生の半ばで剥ぎ取られることが多い。
降格や、落選、退職など。
今まで持って、自分の価値の根拠にしていたものを失ったら、さぞ苦しいだろう。
辛いだろう。
出世した人ほど、そんな思いに苛まれるのではないか。
想像だけど。

だから、一切何も持たない自分の価値って何かを考える。
財産でもない、レッテルでもない。
装飾でも、実績でもない。
あとは、人格と人生の志でしかない。

全て剥ぎ取られても、最後まで残るもの、それを磨くことができる人生が理想である。
難しいけど。