今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

実るほど

(写真:夕空 その4)

《実るほど頭の下がる稲穂かな》

「実るほど 頭の下がる 稲穂かな」

最初はピンと頭を上げていた稲穂も、収穫間近で米をびっしりと実らせると、重さのため頭を下げるようになる。
そこから、人間的に実った人は、腰が低く謙虚であることを表したもの。
だから、功成り名を遂げた人は、すべからく謙虚であると思われているし、そう期待もされる。

しかし、現実にはそうでない残念な人もいる。
つまり、社会的ステータスが高くても、人間的にはちょっとと言う人は幾らでもいる。
例えば、相撲の世界で、横綱、大関にもなれば、その世界ではかなり尊敬される。年上の力士からも、普通に敬語を使われ、頭も下げて貰える。
しかし、相撲は強くても、頭の中は未熟と言う力士もいた。ひどい例は、部屋で一悶着起こし、飛び出した挙句そのまま廃業した横綱もいる。

ステータスと言えば、某国の王族。
世界中に注目されてロイヤルウェディングを挙げながら、旦那は浮気、妻は気に病んで5回も自殺未遂。
ついには、王家をおん出て、彼氏と一緒に事故死。
その時、その国のジャーナリストは、日本の記者に言ったそうだ。
「あなたの国の皇族は品行方正で羨ましいですな。」

つまり、、皆んなが奉って社会的ステータスを持ち上げているだけのこと。
肩書きと人間的な偉さが一致しない実例は幾らでもある。ただ、残念ながら、肩書きしか偉さを測る標識を持たないのが悲しい現実。

《実って知らされること》

でも相対的に、功成り名を遂げた人に、人間的に立派な人が多いのは間違いないと思う。
それは、余程親の七光りでもない限りは、人のしない努力を相当しなければならなかったから。人一倍苦労してきた分、人間的に深みが増しているはず。
それを実りと言っても差し支えないんじゃなかろうか。

しかし、辛苦によく耐え、技量も研鑽できた人間は、怠惰な我々を見て、かえって尊大に振る舞わないのかな?
事実、叱り飛ばされる気がして、その道の一流には近寄り難い気がする。
よく「オーラが出ている」なんて言うじゃないか。
そんな人が、どうして我々のようなものに謙虚に接することができるだろう。

一つ思うのは、所詮我々は一人では何事もなし得ないと言うこと。
功成り名を遂げ、大きな成果を上げた人は、それだけ多くの人の支援も受けてきたはず。人に生かされ、また人を生かし、多くの人に生かされたからこそ、ついには多くの人を生かす人になった。
だから、人一倍、人の有り難さがわかっているので、人に対して優しく、謙虚であると思う。

もちろん、そうでない、勘違いした偉い人もいるけど。

《自分自身実るためには》

功成り名を遂げることと、実ることは違う。
でも、やっぱり名前が売れたらいいだろうな。そして、人から見上げられたいと思う。
特に最近はインターネットと言う媒体を通して、短期間で名前を売る人がたくさんいるから、ついつい羨ましくなって真似したくなっちゃう。
だけど、中身がないのに目立つことしか頭になければ、ミーハーと切り捨てられる。
一時的に世間に持ち上げられて、なんとか有名になるより、やはり自分自身きちんと納得感のある実り方をした方が良い。

「下がるほど 人の見上ぐる 藤の花」

人に見上げられないのは、所詮自分にその程度の中身しかないから。
そう思えるのが納得感。

だから、自分自身きちんと実ることが大切。
実りとは、「下がるほど」なのだから、人に対する謙虚さを身につけ、そして、恩を知ること。

もっと言えば、自分に拘って、人をないがしろにしている間は大成しない。
人に生かされることを受け入れ、お返しに人を生かす。やがて、多くの人に生かされ、また多くの人を生かせるようになる。
つまりは、相身互いを知る。人を知り、恩を知るから、人間が大きく実る。

そんなところかな。
もちろん、今の自分はそこからは、遥か遠いところにいるんだけど、少しでも近づきたいと思う。
そして、いたずらに評価を求めず、自分の中の実りを大切にする。
評価されないまま倒れても、それはそれで納得感を持って終わる。
そういう人間に自分はなりたい。