今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

口にするからこそ

(写真:天空の城)

《敢えて無謀な一言》

一緒にチームを組んで仕事をしている人が苦戦しています。
いろいろと想定の甘さを指摘されて、その都度たいへん困った様子です。

同じチームと言いながら、チームのビジョンまでは真剣に煮詰めたことがないので、側で聞いていていて正直冷や汗タラ〜リ。

しかし、関係者でありながら、知らんふりをしていることに忸怩たる思いがあり、無謀にも「わ〜っ」と叫びながら、確たる論理もない丸腰の状態で参戦。

結果は、想定通り討ち死に。
いやはや、恥ずかしかったあ。

《それでも後悔しない訳》

お小言を頂戴し、恥ずかしい思いもしましたが、それでも無謀な特攻をして良かったと思います。

確かに、シレッと知らぬ顔の半兵衛を決め込めば、なんとか対面を保つことはできたでしょう。
しかし、関係者の癖をして、そこだけ知らぬ振りでは、結局恥ずかしくて自分の気持ちが耐えらません。
それに、無謀でも飛び込めば議論の輪に加えて貰えます。そして、活発なやりとりの当事者となることができます。
そして、学ぶことが多かったのです。

《口にするから知らされる、口にするから磨かれる》

「箸にも棒にもかからぬ」と言われます。
後輩を指導しようとしても、ちっとも覚える気がない。そもそも聞こうと言う気すらない。
やがて、「こりゃ、箸にも棒にもかかわんわい。わしゃ、諦めたよ。」となります。

つまり、相手が縁を持とうとしなければ、いくら働きかけても意味がないと言うこと。
また、古来「縁なき衆生は度し難し」と言われます。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の小説では、お釈迦さまが極悪人のカンダタを血の池地獄から救おうとして、カンダタの過去帳を調べられました。
そして、かつて蜘蛛を助けたと言う善行を縁手がかりとして蜘蛛の糸をカンダタに垂らされました。
それくらい縁は大切で、縁のないものは仏様でも助けられないのです。

議論が起きた時、中に入ると恥をかくからと、口を噤んで対面を保つのも一つの賢い生き方かも知れません。
しかし、それでは、自分から縁を求めたことにならず、当事者感も生まれなければ、学ぶこともできません。

恥をかいてでも、飛び込むからこそ、縁ができ、正され、学ぶことができ、磨かれる。
常に、素直であり、謙虚であり、学び好きであり、そして恥をかくことを恐れず発言する。そんな人になりたいと思います。