今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

勝っているチームの常識は、負けているチームの非常識

(写真:密林の覇者 その2)

《鬼監督来る》

アメリカで作られる野球映画のパターンは、こんな感じ。

万年最下位の弱小チームに、型破りの鬼監督がやってくる。最初、選手たちは、いきなり厳しくなる練習メニューに不平をならして、離脱者が相次ぎます。
しかし、監督の「プロならプロらしい仕事をしろ」の叱咤に自分たちの不甲斐なさを知らされ、ひとりふたりと真剣に練習に向き合う選手があらわれる。一度はチームを離れた選手も、思い直してまた戻ってくる感動シーンはお約束。

練習にも慣れ、すっかりモチベーションが上がって迎えた開幕戦。しかし、結果は惨敗。
何故だ、あんなに頑張ったのに。
しかし、彼等はもう昔の彼等ではない。何が悪かったのか、どうすれば勝てるのか、今度は自分たちで真剣に考えます。
やがて、数試合後から破竹の進撃が始まります。

途中経過を省いて、チームの連勝記事をぐるぐる回すのもお約束。
そして、最後はリーグ優勝をかけた最終決戦に舞台が移ります。
そこで必ず、奥さんに愛想を尽かされたダメ4番打者なんかが出てきて、「もし、俺たちが優勝したら、またやり直してくれないか」なんて口約束を取っています。

しかし、ゲームは序盤から苦戦して、いきなり大量得点を許します。しかし、チームメイトのデッドボールによる出塁で流れが変わります。
そして最後の攻撃、3点差二死満塁の場面で4番バッターの登場。2ストライクまで追い込まれながら、最後は特大のホームランをぶち上げ逆転に成功します。

ラストシーンは、チームメイトがビールをかけあって、この後の輝かしい戦績のナレーションが入る。

こんなところでしょうか。

《片目の猿の群れ》

弱小チームが現状に甘んじるには、それなりの理由があります。
それは、今の自分たちのやっていることが、自分たちの精一杯だと思い込んで、そこから視線を上げようとしないこからです。

着任した監督から、「勝っているチームはここまでやっている、それが世界の常識だ!」と決めつけられても、今まで狭い世界しかみていない彼等には、その方が非常識に感じられ、不平のネタであり、ストレスでしかありません。
それを側から見ていると、「なんと世間知らずな」と情けなく思いますが、狭い世界しか知らない彼等には、それが精一杯なのです。

片目の猿と両目の猿の話があります。

陸地から隔絶された海の上に、片目の猿ばかりが暮らしている島がありました。そして、そこに今度は両目の猿が流れつきます。

見れば、片目の猿ばかり、正常なのは自分だけです。
ところが、その島に先住していた猿たちは両目の猿を笑います。
「やあ、おかしなのが来たぞ。両目の猿だ。」
(おかしいのは、そっちの方じゃないか。)
そう気持ちを強く持てていたのも最初だけで、だんだん片目の猿たちの嘲りに耐えられなくなった両目の猿は、岩に一方の目を打ち付けて潰してしまいました。
そうして、片目になった元両目の猿は、片目の猿たちの仲間になったと言います。

《非常識が、常識に変わる瞬間》

狭い世界しか見えていないものには、広い外界の常識が非常識としか思えません。この場合、狭い常識にとらわれているのは片目の猿たちの方で、広い世界の正常な常識を持っていたのは両目の猿の方です。
しかし、非常識も、それを常識と捉えている人が多ければ、そのまま罷り通ってしまいます。これは、そんな私たちの常識の危うさを教えた話です。

負けが当たり前のチームを変えようと勢い込む監督の前に、まず狭い世界に慣れた彼等の非常識な常識が立ちはだかります。しかし、それに同調しては、監督も片目の猿になってしまいます。
一方、両目の猿を見た弱小チームのメンバーは、監督のことを非常識人だと嘲ります。しかし、本当は自分たちの方が非常識なことに気がつかねばなりません。

私たち社内業務が多い技術の人間も、ともすれば狭い孤島の片目の猿になりがちです。
しかし、幸いにして、広い世界の人たちと縁があって、自分たちの非常識を自覚する機会に何度も恵まれました。
必ずしも、最初から全てを受け入れられた訳ではありませんが、自分たちの常識が決して正しい訳でないことを気付かせてもらってからは早かったと思います。

今後も、自分たちの狭い世界の常識が外界から否定されることが多くあると思いますが、決して自分たちだが正しい訳でないことを心に留めて、謙虚に学べるよう心構えをしたいと思います。