今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

成長とは、考え方×情熱×能力#89

(写真:オレンジ・トゥ・パープル その4)

安希子と歌陽子

仮にも自分が使われている屋敷の令嬢をすっかり怯えさせ、また大泣きさせたのだ。
歌陽子が母親にそのことを訴えたら、安希子も決してただでは済まなかっただろう。

だが、歌陽子は安希子のデタラメを多少なりとも信じた。

(もし、自分がこの怖い家政婦の言うように、取り違えられた子供だったらどうしよう。本当にDNAを調べられたらどうしよう。)

これは、なんとしても歌陽子と安希子の中だけの秘密にしなければならないことだった。
そして、両親から自分の子供ではないかも知れないと疑いを起こさせるような行いは慎もう。
そう思って、歌陽子は安希子のことを両親に訴えもしなかったし、それ以来思い上がった言動を慎むようになった。
その意味で、東大寺家の娘である自分を客観視できる性格の基礎は、この時作られたと言っていい。
今まで、「お嬢様」「歌陽子さま」とさんざんチヤホヤされていい気になっていたが、自分がそれに値する中身を全く持ち合わせていないことを理解し始めた。それが反対に、彼女の内省的な性格と、父親譲りの聡明さに磨きをかけた。もちろん、それはもっと後の話である。

とにかく、結果的に歌陽子は安希子の身を守った。それは、歌陽子自身の身を守ることでもあったから。
それを安希子自身が見越していたかは分からない。母親の志鶴に言いつけられても構わないと腹を括っていたかも知れない。それくらい、安希子の性格には激しいところがあった。
いずれにしろ、安希子は東大寺家の長女に対して精神的に優位に立つことができた。
口では慇懃に「歌陽子お嬢様」と言いながら、その裏では歌陽子に何でもさせることができた。こっそり自分の仕事を手伝わせることも、自分の欲しいものを持ちださせることも、その気になればお金を貢がせることだってできた。ただ、安希子はそれを自重した。自分自身、歌陽子に対してリミッターがかからなくなるのが怖かったし、もっと有効な他の利用方も知っていたから。
それは歌陽子の従順さを利用して、自分の評価を上げること。
屋敷の他の家政婦や家庭教師の前でわざと我儘に振舞わせ、安希子の前ではおとなしくさせる。それも、恐怖で支配しているのではなく、あくまで安希子に懐いている様子を演じさせる。

「お嬢様、もっと笑顔。そうでないと、私が困ります。」

「はい・・・、安希子さん。」

「やめてくださいませ。そんな小さな声を出されては、私が怖がらせているみたいじゃありませんか。」

「は、はい!」

「そうです。もっとニッコリと。お嬢様は、笑い顔が可愛いところだけが取り柄なんですから。」

「ごめんなさい。」

「謝らなくていいです。」

ついつい口調がきつくなるのを、自分でも嫌に思っていた。だが、歌陽子と過ごしているときだけは、完璧でない素の自分をさらけ出せていた。そして、それが安希子にとってとても楽な時間でもあった。だから、安希子に自覚はなくても、彼女は明らかに歌陽子に依存していた。
今でも歌陽子の顔さえ見れば、つい憎らしい嫌味の一つも言わずにおれないのは、明らかにその頃の名残りである。

だが、傍目には二人の関係は実にうまく行っているように見えた。
それまでは手のつけられなかったグズな娘が、安希子の前では人が変わったように素直でよく言うことを聞く子供に変貌してしまう。
しかも、満面喜色いっぱい、溢れる笑顔で安希子に抱きつかんばかりのなつきよう。それも全て安希子の仕込みの賜物である、
これには、父親の克徳も母親の志鶴もすっかり感服して、何でも歌陽子のことは安希子に任せるようになった。
だが、本来感情的にしこりのある二人、果たして内心も見た目の通りの仲の良い関係であったかどうかは定かではない。

しかし、そんな関係も徐々に変化を迎える。
それは、歌陽子が中学生となり、世界が広がるに従って自我が形成されて来たからであった。その頃には、もう安希子のかつてついた嘘など歌陽子の中では問題でなかった。
そして、当の歌陽子はより聡明に、かつ内省的に磨かれて行った。
そうなると、安希子も今までのように歌陽子を支配することはできない。やはり、主筋としての敬意を持って接しなくてはならなくなったが、それでも歌陽子に対する毒舌だけは止まらなかった。歌陽子も、苦笑いをしながらも、一応それは受け入れた。それは、安希子にとって、いつも完璧を要求される自分からの解放区だったからかも知れない。そして、歌陽子もそれを直感的に理解していたのかも知れない。

(#90に続く)