今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

成長とは、考え方×情熱×能力#85

(写真:斜陽の白壁)

厨房の怪

「安希子さん!安希子さん!」

歌陽子の二の腕を掴んで強く引っ張りながら、志鶴が呼ぶ。

さっきまでいたはずの場所から、安希子は忽然と消えていた。
そして、後には、安希子の面倒を任せた農業塾女子のものと思しき、作業靴が片方だけ。ミステリーのようで、不穏な匂いがプンプンする。
いや、この匂い、安希子の香水とアルコールの混ざった匂いかも知れない。

「ちょっと、歌陽子。」

「はい、お母様。」

少し斜め下から志鶴の顔を伺いながら答える。

「あなた、安希子さんを探してらっしゃい。」

「え?なんか、疲れていたようですし、きっとどこかで休んでいますよ。今日のところは手も足りているようですし、そっとしておいてはいけないですか?」

「何言ってるの。あなた今日の主役でしょう。まだ、みなさまにご挨拶をしていないでしょ。」

「はい。」

「だから、またドレスに着替えなければならないでしょ。その時にまた安希子さんに手伝って貰わなくてどうするの。」

その時、安希子のコルセットを締め付けるギュウギュウと言う音が歌陽子の脳裏に響いた。

「あのお、お母様・・・、ドレスくらい私、自分で着られます。」

「バカねえ、この子は、何言ってるの。あなた、自分でドレスを着たところ、鏡に映したことあって?ウエストも、バストもゆるゆるで、子供の学芸会みたいよ。」

「だって、それは私が・・・。」

子供体型だから、と言おうとしてやめた。

令嬢と言う人種は、30パーセントの優越感と、20パーセントのプライドと、50パーセントの見栄で出来ていることを歌陽子は知っていたから。

「さあ、安希子さんを探しに行くの。ハ・ヤ・ク!」

母親の志鶴は、歌陽子のことをさんざんクサすくせに、不思議となんでも彼女を頼んでやらせようとする。人間には、時折そんな依存関係が発生する。
ダメだ、ダメだと文句を言うなら、そんなダメな人間に頼まなければ良いものを、事あるたびに用事を言いつける。言いつけては、文句を言う。しかし、そのダメな相手がいなければ夜も昼も暮れない。
歌陽子と志鶴の関係も少しずつそれに近づいているかも知れない。

いずれにしろ、志鶴はこうと言ったら絶対引かないし、歌陽子も逆らうことができなかった。

「はあい。」

少し間延びした返事にわずかな反抗心を込めて、歌陽子はホールから厨房の方に向かった。

しかし、あの塾生に悪いことをした。
あの場の光景は、禁断の地に迷い込んだ乙女が、そこに巣食う物の怪に連れ去られたようではなかったか。
魔物は生贄を己が巣に連れ込んで頭からムシャムシャと齧るのだ。

そんな想像に身震いしながら厨房に近づくと、果たして「しくしく」と悲しげな鳴き声が漏れてきた。
ほんとに、安希子は、塾生を生きながらに丸かじりにしているのか。

そおっと、厨房のドアノブに手をかけ、少し開いて中を覗く。灯りは落ちていた。
しかし、部屋の奥からは、チロチロと小さな光が漏れてくる。

悲しげな、しくしくは、相変わらず続いていた。
止まりそうな足を励まして、歌陽子は厨房の奥へと進んで言った。
ふっと横を見ると、片目が異様に大きな、白い顔が自分を睨んでいる。

「あっ!」と叫びそうなのを必死で堪えて、よく見直してみると、それは食器洗い機の銀色の壁面に映った自分の姿であった。ボディのわずかな凹凸が映るものをみな異形に変えてしまう。ましてや、チロチロ漏れるわずかな光の中で見る姿は恐さがひとしおだった。

歌陽子は怖さに負けまいと声を出して、安希子に呼びかけた。

「あのお、安希子さん、いるんでしょ?あと、お名前を聞いてませんでしたけど、安希子さんを見てくれて有難うございます。」

その時、ふっと、しくしく泣いている声が止まった。
そしてガラガラと、耳を聾するかの如き大きな音がした。
思わず、その方向を振り返った歌陽子、さっと走り去る人影を見た。

そして、今度は後ろに人の気配。
恐々と首を回して、彼方に目を向けた歌陽子の前に、バン!

「う、うわあ!」

たまげて歌陽子は尻餅をついた。

それはあまりにこの場に不似合いな若い女性の髪の毛の塊だった。

(#86に続く)