成長とは、考え方×情熱×能力#76
おむすびの味
そのうち、克徳はいつの間にかバイオリンの演奏が変わっていることに気がついた。
さっきまでは、ゆったりとして少し滑稽感が漂うユーモレスクが流れていたはずであった。
それがいつの間にか、日本の童謡の『赤とんぼ』に変わっている。日本人なら、赤とんぼの旋律を嫌いな人はまずいないが、このパーティの雰囲気に似つかわしくはなかった。
♫夕焼け小焼けの赤とんぼ
おわれて見たのはいつの日か
誰かが曲に合わせて小さく歌っている。
はからずも、参加者たちの郷愁を誘う音色であった。
そのうち、だんだんとホールの明かりが弱くなり、その分光に赤みが増してきた。
ある程度、明かりが落ちたところで、ホールの一角目掛けて強い赤のスポットライトが照射された。そして、その中には黒いシルエットの影絵が映し出されていた。
黒い影の遠い山の端に、実を揺らした柿の木が重なり、その下に赤子をおうた少女が歩んでいた。そして、その周りをたくさんの赤とんぼが飛び回っている。
それは、童謡の世界を表現したものだった。
ホールの招待客はすっかりノスタルジーのとりこになったようだった。
そこで、松木会長がしみじみと言った。
「いやあ、今年もまた素晴らしい趣向ですな。なんだか、子供の頃を思い出しましたよ。しかし、夕焼けで夕飯を思い出したら、なんだか無性に腹が空きましたな。」
確かに、招待客にはさっきから酒と軽食しか出していない。さすがに、それでは腹がもたない。
その時、鈴を振るように、
「どうぞ」と声がした。
見ると、いかにも田舎にいそうな少女が竹皮の包みを手渡そうとしている。
その格好も、季節はずれの麦わら帽子に、動きやすいゆったりとしたチェックのシャツの前をはだけ、下には薄いティーシャツを着ていた。チェックの裾はズボンにたくしこんで、前だけはズボンの外に蝶で結んでいた。
そして、足元は泥のついた長靴を履いて、今さっきまで畑仕事をしていたかのような体だった。
その姿を見た克徳は思わず声を上げた。
「か、歌陽子、お前、何をしているんだ!」
「あ、ほんとだ。歌陽子さん、これはどういう趣向ですかな?」
松木会長も驚いて言った。
確かによく見れば、東大寺家令嬢の歌陽子である。途中から姿が見えないと思ったら、こんなところで何をしているのか。
「歌陽子。お前、なんだ、その格好は?」
父親の克徳はさらに問い詰める。
「えっ、と・・・それは。」
言葉を濁しながら、チラチラと後ろに視線を送る歌陽子。そこには、頼みの綱の先代老人がいる筈だった。
しかし、その姿は影も見当たらなかった。
たまらず、
「おじい様、おじい様」と小声で呼びかける。
「おじい様」にますます表情を険しくした克徳は、
「ちょっと来なさい!」と歌陽子の手を引っ張った。
「まあ、お待ちなさい。東大寺さんもお一つどうですか?」
その場をとりなそうと、松木会長は受け取った竹皮の包みを開いて、中のおむすびを一つ克徳に差し出した。
「おそれいります。しかし・・・。」
「さあ、どうぞ。私も食べますから。」
そう松木会長に促されて、克徳もおむすびを受け取った。
おむすびといっても、専門店やコンビニで売っているようなきれいなものでない。
形良く三角にもなっていなければ、海苔の巻き方も雑、海苔と海苔のあいだから米粒がこぼれ落ちそうである。
(こんな雑なものをお客様にお出しするなんて。子供の仕事でもあるまいに。)
そう苦々しく思いながら、一口分を口に入れた。しかし、
(ほう。)
無理に握って米を潰していないから、口に入れるとほどよく舌の上で崩れて、米の旨味が口の中に広がった。
海苔の強い海の匂いが、米本来の旨味を引き立て、さらに芯の梅干しから染み出した塩気のある酸味が味に緊張感を生み出している。
「おむすびは握りしめるものだとばかり思っていましたが、なかなか良い仕事をしますな。」
美食に慣れているはずの松木会長も、すぐに一つを平らげ、満足そうである。
「歌陽子さん、もう一つ所望できますかな?」
「はい。」
その時、少し離れたところから声が飛んで来た。
「松木さんや、まだまだ序の口じゃ。急いで腹を膨らすと後悔しますぞ。」
先代老人である。
(#77に続く)