今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

成長とは、考え方×情熱×能力#8

(写真:流星雲)

一番嬉しいこと

「じゃあ、お母様。ちょっと外に出てみませんか。」

歌陽子(かよこ)は野田平の母親を散歩に誘おうとした。
頃は、秋の深まりゆく時季である。
窓辺からも、少しずつ色づき始めた木々の葉や、民家の軒先の鮮やかな橙色の柿が目に映えた。秋の心地よい風が頬を撫でる。
まだ、日のあるうちに施設の周りを一緒に歩けばどんなに気持ちが良いだろう。

「そうだねえ。なかなか職員さんに悪くて頼めないけど、今日はあなたがいるものね。
悪いけど甘えてみようか。」

「はい。」

歌陽子は、短かく気持ちの良い返事をして、母親がベッドから起き上がるのを手伝おうと身体を寄せた。
そっと上半身を支えて、傍の車椅子にゆっくりと導く。
ただベッドから車椅子に腰を動かすだけの簡単な動作でも、老婆にはたいへんな努力が必要だった。しかし、歌陽子の細い腕に体重を預けながら、少しずつ車椅子へと身体を移して行った。
そして、車椅子に腰を落ち着けると「ふうう」と大きな息を吐いた。
一方の歌陽子も額に大粒の汗を吹き出していたが、上気した顔を彼女に向けてニコッと笑いかけた。

それを感心して見ていた野田平が、

「へえ、おめえ、うめえもんだな。ひょっとして本職か?」

と尋ねた。

「違いますよ。でも、短大の時にホームヘルパーの2級免許を取ったんです。」

「全く、お嬢様にしとくにゃ勿体無いねえぜ。」

「光栄です。」

車椅子を押して部屋からエレベーターに向かった。そのままエレベーターで一階に降りて、玄関の受付で簡単に散歩の許可を貰う。
そして、玄関から秋の柔らかな日差しの中へと車椅子を押して行った。
施設は林と隣接しており、林の中へと続く小道が整備されていた。林からは少しずつ赤みが増した光が漏れ、遠くで百舌の鳴き声がした。

「兎追いしかの山〜」

歌陽子の口からは自然に子供のころ教わった唱歌が漏れた。
それに、嬉しそうに目を細めた母親が続いた。

「小鮒釣りしかの川〜」

そして、二人はそっと声を合わせた。

「夢は今もめぐ〜りいて 忘れがたき故郷〜」

小さくて静かな合唱が林に流れていた。

野田平はどうしていたろう。
なぜか彼は二人から少し距離を置いて立っていた。
ひょっとして、やけに涙腺が緩くなったところを歌陽子に見られたくなかっただけかもしれない。

「あ、ああ、きれい。」

林の片隅に身を寄せあうよう実をつけた真っ赤なさんざしに、母親は感嘆の声を上げた。

「お母様、ご自分で歩いて手にとってみられますか?」

「え、ええ。そうできたら、どんなに嬉しいかしら。でもね、皆んな私が転んだらたいへんだからって、歩くのを止めるんだよ。」

「大丈夫、私が手を持っていますから。」

「え、ええ。まあ、まあ。」

戸惑いながらも嬉しそうに腰を浮かせかかった母親に、野田平が心配して声をかけた。

「母さん、無理をしてはいけないよ。」

「大丈夫です、さ、手を私の肩に回してください。」

歌陽子は肩を貸して母親を立たせると、安心させるように優しく腰に手を回してそっと支えた。

「はい、はい、はい。後少し。」

歌陽子は声をかけながら、母親にさんざしの枝まで歩かせ、そして間近で手に取らせた。
そして母親の手に優しく歌陽子の手を添え、さんざしの枝をぽきりと折ると、老女の手に握らせた。

「自分の足で歩けるのって嬉しい。こんな気持ちの良い日は久しぶりだよ。」

大事そうにさんざしの枝を手に握った母親は、また歌陽子に導かれて車椅子に腰を据えた。
そして、しわだらけの手で歌陽子の小ぶりの手と、さんざしの枝を代わる代わる愛おしそうに撫でていた。

「正憲。」

「はい、母さん。」

「お前はいい生徒さんを持ったねえ。」

そこで野田平は少し胸を張って、

「もちろん、僕の学生ですから。な?」

野田平に振られた歌陽子も満面の笑みで返事を返した。

「はい。」

(#9に続く)