今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

克服すべきは恐怖心ではなく、依存心である#1

(写真:石の上の上人)

歌陽子の世界

「おい、コーヒー係。」

「・・・。」

「聞こえねえのか?コーヒー係。」

「・・・。」

「くそお、一端に無視しやがる。これでどうだ。」

野田平(のだいら)の手から小指大のボルトが飛んで、軽く弧を描いて歌陽子(かよこ)の頭にコツンと当たった。

「わ、わ、わ〜っ!」

急に来た衝撃に歌陽子はたまげて、椅子からずり落ちた。
そのままメガネをずり下げ、ペタリと床に座り込んだ姿は、まだあどけない少女だった数ヶ月前を彷彿とさせた。

「おい、コーヒー係、なんで無視しやがんだ。」

積み上がった書類の向こうから野田平が絡んでくる。

「野田平さん・・・。痛いじゃないですか。それに無視していた訳じゃありません。今月の数字をまとめるのに集中していて、それで聞こえなかったんです。」

「は、都合のいい耳だなあ。まあ、いい。コーヒー係、あんたはコーヒー係の仕事をしろ。」

「また・・・ですか。はい、分かりましたあ。」

「この野郎、この所すっかり慣れやがって。前田町のジジイのお気にりだからっていい気になるなよ。」

「あのお、仮にも私は皆さんの課長なんですから、少しは課長の仕事をさせてください。」

「知るもんか。東大寺の親父に据えられたポストなんざ俺は認めないね。お前なんざ、コーヒー係で充分だ。」

言葉はトゲトゲしいが、側から聞いていると祖父と孫がじゃれあっているようにも聞こえる。
東大寺歌陽子、三葉ロボテク 開発部技術第5課配属半年未満の新入社員にして、新米課長。年齢20歳。

なぜ、こんな世間知らずの若い女子が課長職を拝命したかと言えば、それには東大寺家の複雑なお家事情があった。
東大寺家は、バイオで世界をリードする医療系企業グループのオーナーであり、当三葉ロボテクの筆頭株主でもある。資産は数兆と言われる日本屈指の財閥の一族であった。
その令嬢が歌陽子である。
東大寺家で綿で包むように育てられ、その系列の小中高一貫のお嬢様学校で幼少期から思春期までを過ごした。そこから、2年間名門短大でティーンエイジ最後の青春を送った。
東大寺家とその周りの世界しか知らず、多少浮世離れしたお嬢様。
もちろん、子供の頃から多くの取り巻きに囲まれ、プリンセスのようにも扱われてきた。
それでも、歌陽子が勘違いしなかったのは、父親譲りの聡明さと内省的な性格のたまものである。
やがて、短大も無事卒業が近づき、父親は少し広い世界を見せてやろうと、歌陽子に2年間の海外留学先を決めてきた。
まるで、絵に描いたような理想的な人生、留学から帰れば、海外帰りの才媛の肩書きと一緒に社交界デビューをし、やがて婿を取る予定だった。

しかし、そんな理想的な人生のレールにいたたまれなくなったのは当の歌陽子だった。
何も選択しない、何も行動しない。それでも人生にはフルコースでお任せのご馳走が用意されていて、それを食べて過ごしさえすれば満足して一生を終えられる。
でも、私の人生は高級フレンチのフルコースじゃない。
どんなに無様でみっともなくても、キチンと私自身の足で立って歩いて、私自身の人生を作りたい。
そう主張して、父親の決めた完璧なレールにノーを突きつけた。
当然、父親がそんな身勝手を許すはずもない。

「お前に高い教育を受けさせたのは、そんな知恵をつけるためじゃない。」

しかし頑固なのは父親譲りで、歌陽子も頑として引かなかった。
さすがにラチがあかないと思った父親は、策を弄し一時譲歩することにした。
しかしそれは、自分の息のかかった三葉ロボテクに歌陽子を放り込んで、しっかり世間の厳しさを思い知らせて、懲りた頃にまたこちら側に引き戻そうと言う計画だった。それで一年留学は遅れるが、手の届かない海外でややこしいことになるより余程マシと考えた。
そして、三葉ロボテク側に要求したのは、一番しんどくてやり甲斐のない部署に配属してくれと言う注文。
筆頭株主であり、現在の経営母体である東大寺グループの意向に答えようと、三葉ロボテク側が必死で考えたのは、開発部技術第5課 課長職のポスト。
ここは社内で魔窟と呼ばれ、大の男でも一週間ももたないと言われていた。
そして、そこで歌陽子を待ち受けていたのは、野田平、前田町、日登美の老獪な技術者たち。とにかく強面でワガママで我を曲げない3人を相手に新人課長 歌陽子は一カ月頑張った。それは会社のレコードを更新したと言う。
しかし、一方歌陽子はメンタルにたいへんなダメージを受けていた。
会社は慌てて彼女に休暇を取らせ、現場から引き離した。
そして、してやったりとばかりに父親は、歌陽子が二度と世間に出たいと思わないようにお嬢様生活を満喫させた。
そんな父親の意図に気づいた歌陽子は、一人屋敷を抜け出して、三葉ロボテク裏の公園までやってきた。そこは歌陽子が父親の大きな手を離れて作ろうとした、とても辛かったけれど彼女自身の世界だった。
それを目に収めて帰りかけた歌陽子に、東大寺嫌いで一番の苦手の前田町が話しかけてきた。
また、気持ちを挫かれるようなことばを投げかけられるかと思いきや、前田町の歌陽子への評価は意外に高いものだった。
そして、「また一緒に働かないか」と言う前田町の言葉に勇気をえて、歌陽子は休職一カ月足らずで復帰した。
計画がうまく行かなかった父親が、三葉ロボテク側にどんな叱責をしたかは定かでない。

あの日歌陽子が持参したコーヒーを、前田町が気に入ってくれたので、それ以来の彼女は会社にコーヒーメーカーと豆を持ち込んで三人の老技術者に振舞っている。

「は、こんなチンケなもんで取り入るつもりかい。」

そう野田平は散々毒づいたが、今では一番コーヒーの愛好家だ。
それだけなら良かったが、歌陽子を「課長」ではなく「コーヒー係」と呼んでお茶汲みならぬコーヒー汲み係にしている。
最初は、「喜んで貰えるのなら」と甲斐甲斐しくコーヒーを給仕していた歌陽子も、「コーヒー係」「コーヒー係」とあまりこき使うものだからすっかり閉口してしまった。
それで、野田平に対しても少しは言い返すようになった。しかし、野田平もそれを半分嬉しそうに掛け合いに応じている。
そこは少しずつで歌陽子の世界になってきたのだ。

「おい、コーヒー係、ずれたメガネをかけ直せ。みっともねえ。」

「はい。」

(#2に続く)