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今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

ルールと心意気

(写真:メイエキ ムーン)

大切なルール

「すいません。よく分からなかったんで、以後よく気をつけます。」

そう強面の警官に素直に謝りました。
これは若かりし頃、道路の右折レーンに侵入しそのまま直進したところ、いきなりピピピ!「そこの車止まりなさい」と怒られた時の話です。
「切符切られるかな」と神妙にしていると、

「あなた、そんな運転をしていると絶対事故するよ。」

と、お小言を頂戴しただけで許して貰えました。
そんなこともあり、よく友達と「警官にも融通がきく人ときかない人がいるよね」と話しています。
最近では危険運転や道交法違反が世間で厳しく言われていることもあり、かなり厳しくルールが運用されている気がします。
そもそも車は便利ではありますが、使いようによっては刃物やピストル以上に恐ろしい走る凶器です。それを道路交通法と言うルールを守ると言う誓約のもと、公道に乗り入れているのです。
だから、ルールは守って当たり前。ルールはとても大切です。
しかし、最近は車の性能が良いのか少々規則違反をしても即事故につながるわけではありません。すると私たちドライバーはスッカリ自惚れて、警察にさえ見つからなければ良いくらいに本来のルールの意味を取り違えてしまいます。

でもルールが全てではない

道路交通法は命に関わることなので、本来いくら厳しく運用しても良いものです。
それでも、「お目こぼしして貰えた」と嬉しくなるのには、自分ながら「しょうがないヤツだな」と呆れます。
ただ、ルールも万能ではありません。
ルールは
時代や場所の事情に一時合わせ作られますが、当然世の中は変化していきます。
一時期、ネットの誹謗中傷をどう裁くかが議論になったように、世の中とルールは常に齟齬をきたし、その調整が必要です。
ただその調整が終わるまでの間に、そこから漏れて辛い思いをする人がどうしても出ます。
その人たちをどう救済するかは、今度はルール自身ではなく、ルールの適用の問題なのです。

ルールと心意気

以前、歴史作家がこんなことを喋っているのを聞きました。

「侍1人に対して、農民が9人もいた時代。年貢で農家から収穫の半分も取り上げたらどうなる?たちまち、米だらけになって、とても食べきれはしないだろう。」

確かに、他の工商の階層に下げ渡していたとしても、明らかにアンバランスです。
ですから、江戸時代は農民搾取の暗黒時代と思われていますが、必ずしもそうばかりではないかも知れません。
(ただ、その作家は現代の米の生産性を基準にしているので、当時米が余っていたと単純には言えない気がします。)
ただ、封建社会の縛りはキツかったものの、今のように何でもキッチリ運用を管理する手段がなかったので、かなり現場の裁量に任されていたでしょう。
その中で、ルールの運用を農民の現状に合わせて変える二宮金次郎のような心意気系の代官もいたと思います。

相手あってのルール

そもそもルールは何のためか?
それは、相手を生かすためのものです。
道交法も、公道を利用する全てのドライバーと歩行者の命を守り、安全に道路を利用して貰う為のものです。
ルールと言うと、その縛りや窮屈さばかりが目に付きます。しかし、本来は対象となった全員を幸せにするのが前提で決められているものです。
法学者に言わせれば「悪法も法なりや」ですが、人を不幸にする悪法なら変えなくてはなりません。また、その間に辛い思いをする人がいればルールの運用で救済することも必要です。
もちろん、国の法律の運用は警察や裁判官の領分です。しかし、企業であったり、地域であったり、個人の集まりであったりと、ルールを作って運用する側に回ることはいくらでもあります。そんな時、「ルールだから」と視野を狭くして、相手を不幸にしていることがあるかも知れません。
確かに、ルールに従えば相手も説得しやすいし、何より考えなくて良いので楽です。
そして、安易になし崩しにすれば誰も守らなくなるので、ルール自体を存続させるにはカチッとした運用が大切です。
しかし、本来ルールとは不完全なものであり、また相手を生かす為のものですから、常に状況に応じて運用を変える準備はしておきたいものです。