いっそ愚直に(中編)
久遠劫の正覚
「ドゥスタラよ、そなたがここに参ったのは、決して本意ではなかったことはよく存じておる。」
十大弟子の一人、シュリハンドクがドゥスタラの経緯を仏陀から聞かされていても何ら不思議ではない。
ドゥスタラは、気を取り直して答えを返した。
「はい。おかげで私はこのように生きながらえております。それにはとても感謝しております。しかし、と言って、私には皆さんが求めておられるものが理解できないのです。」
「仏陀のさとりのことを言っているのかな?」
「はい。聞けばさとりには、低いさとりから高いさとりまで52段の位があり、その1段目ですら、一生や二生をかけてもなかな得られぬそうではないですか。
ましてや、最高位の仏陀のさとりに至るまでは、久遠劫と言う無限の時がかかると聞きます。
まるで海の水を貝殻で汲むようなことを、毎日厳しい修行で繰り返しているのが、私には理解できないのです。
そんなことで、一生過ごしてしまって死ぬ時に後悔しないものなのでしょうか。」
「ならば、以前のそなたのように欲や怒りに身を任せる生き方をして、最後それで命を取られても満足すると言うのか?」
「それは・・・違います。」
身に覚えのあるドゥスタラの態度は神妙だった。
「確かに、久遠劫の正覚はまことのことだ。しかし、仏陀の教えとは本来根機を選ぶものではない。現にこの私も今生で高いさとりを得られているではないか。」
木々から漏れる朝の光のベールをまとい、ドゥスタラにはシュリハンドク自身が光り輝いて見えた。
「わ、我が師よ。」
思わず、ドゥスタラはシュリハンドクを師と呼んだ。
「我らは等しく仏弟子だ。師弟の間柄はそぐわしくない。なれど、そなたが知りたいこと、聞きたいことあらば何なりと答えよう。」
チリを払わん、アカをのぞかん
「なれば、シュリハンドク様がどのようにして今のような高いさとりに到達されたか、知りとうございます。」
「それも久遠劫で結んだ縁ゆえじゃ。それが今生、良き師、正しき法、そして正しき教導に導かれて結実したものに他ならない。
なれど、今はそなたも等しく仏弟子である。それも久遠の教導に導かれた縁が実を結んで現れた結果に違いない。」
「私がですか・・・。」
「さよう。ならば、私がどのように、良き師仏陀に導かれたか、話をしよう。」
そう、シュリハンドクは遠い目を空に向けて、ポツポツとかの聖者の物語を語り始めた。
・・・
私が仏陀とお遇いしたのは、まだ、二十歳前のことであった。
私は、そのころ国一番の呆けものと言われ家族からも持て余されていた。
なにしろ、自分の名前すら満足に覚えられぬのだ。仕事を言いつけても、何一つまともにできぬ。外へ使いにやれば、いつも帰り方が分からなくなり、家族が探し回る始末であった。
しかし、その自分を母だけが庇ってくれたのだ。「アホウよ」「呆けものよ」と周りは散々罵ったが、母だけは「お前は少し足りないところはあるが、この世で一番心根がきれいだ」と褒めてくれた。
そんな辛い日々を母だけをあかりに生きてきたが、やがて父が死に、母も死んだ。
そして、日ごろひどく私を罵っていた兄が、もう庇うもののいなくなったのを幸いと辻に放り出したのだ。
「お前のようなやつは、もう二度と家に帰ってはならん!どこなりと行くがよい!」
そうしたら、私のような呆けはとても生きてはいけない。もう、死ぬしかないと悲しくて、悲しくて辻に立ち尽くして泣いておった。
泣いても泣いてもとめどなく涙が溢れた。
ついには、身体中の水が全て流れ出て、からからに干からびて死ぬのかと怖くなった。
しかし、涙はどうしても流れるのをやめなかった。
ところが、その私に優しく声をかけるお方があった。
「そなた、何をそのように悲しげに泣くのじゃ?」
その尊いお姿に私は、一瞬言葉が出なくなった。
「よい。ゆっくり息を吸って気持ちを落ち着かせて喋ればよい。」
私は、その慈愛あふれる眼差しに、正直に自分のつらい境遇を打ち明けたのだ。
「実は、私は生来の馬鹿者でございます。あまりにおろかなので、実の兄にも捨てられてしまいました。これからどうしたら良いのかと途方にくれておったのでございます。」
そのお方は実に優しく微笑んで、いままで誰も言ってくれなかった言葉をかけてくださった。
「お前は、自分がおろかだと知っているではないか。世の中のものは、みなおろかでありながら、自分がおろかだとは知らない。それに比べて自分をおろかだと知るお前はもっともさとりに近いのだ。」
私は思わず、手を合わせ、その方を伏し拝んでいた。
それが、私と仏陀との出会いであった。
仏陀は、私を精舎に連れ帰られ、他のお弟子方と同じように仕事をお与えくださった。
そして、一本の箒と塵取りを渡され、一句の聖語をお与えてくださった。
「よいか、シュリハンドクよ。そなたに仕事を与えよう。この箒で一心にこの場所を掃くのだ。そして、こう唱えよ。
『チリをはらわん、アカをのぞかん』と。」
(後編に続く)