今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

持てる環境で戦う

(写真:よるの難波 その3)

その男、信繁

昨年、お茶の間を席巻したもの、リオオリンピック、アメリカ大統領選、そして「真田丸」。
主人公は、真田幸村こと、真田信繁です。しかし、中盤の関ヶ原の戦いまでは、父親の真田昌幸の方が目立っていました。
関ヶ原で豊臣方が大敗した後、真田昌幸、信繁親子は九度山に幽閉されます。
そこで、稀代の軍略家、真田昌幸は生涯を閉じ、信繁もまたひっそりと暮らすことを余儀なくされます。
一方、豊臣の遺児秀頼の大阪方と徳川家康の関東方の間が俄かに緊張し、戦が避けられない状況となります。
そして、大阪方から九度山の信繁のもとに使者が使わされます。

「真田殿のお力をもって、豊臣にお味方いただきたい」

対して、上田の戦で散々真田昌幸の軍略に煮え湯を飲まされた徳川家康は真田を警戒し、なんとしても信繁の大阪入城を阻止しようとします。

大坂冬の陣

なんとか徳川の目をかいくぐって入城を果たした信繁でしたが、まずは牢人衆の意識統一に苦労します。そのため、牢人たちの頭目格の明石、後藤、毛利、長宗我部ら各武将の顔を立てて、合議制で全軍をまとめようとしました。
そして、信繁が取ろうとしたのが打って出る戦略。攻め寄せる関東方に対し、地の利は完全に大阪方にあったため、信繁をして「負ける気がせぬ」と言わしめました。
もちろん諸将の意見は割れましたが、それもなんとか取りまとめ、いよいよ打って出ることに決した矢先、大阪城の堅牢さを頼みにする豊臣のお側衆が籠城戦に固執したのです。

「ならば、籠城で策を立て直すまで」

信繁はすぐに切り替えました。
城には守りが弱い部分がありました。
あくまで、籠城を行うのならばその弱い部分を補強する必要があります。
そのため出城を築いて、そこを補強し、関東方の寄せ手を跳ね返そうとしたのです。
やがて戦端は開かれました。
いわゆる大坂冬の陣です。
そして、信繁が築いた出城こそ、番組タイトルの「真田丸」でした。

持てるものでベストを尽くす

関東方が大坂城に攻め寄せます。
しかし、彼らはこの出城に散々悩まされ、長期の持久戦を覚悟しなければなりませんでした。
徳川はもともと、豊臣の家臣です。
そして、今の関東方には豊臣恩顧の大名も沢山おり、徳川について豊臣を攻めることに負い目を感じていました。しかし、時代の趨勢が徳川に移っている以上、お家存続のために徳川に従わざるを得ないのが実情だったのです。
もし、関東方が大阪城を攻めあぐねていれば、「趨勢は再び豊臣に有り」と大阪方に寝返る大名も現れかねません。
そのため、家康はなんとしても早期に決着をつけたかったのです。そして、豊臣の天守に向けて長距離砲で砲弾を打ち込みました。
これにより何人もの侍女を失った淀君は震え上がりました。
そして、信繁らの反対を押し切って、さっさと徳川と和議を決めてしまったのです。
和議が決まった以上は仕方がない。
今度はいかに和議を有利に持ち込むかが信繁の課題となります。
交渉相手はあの本多正信、あの老練な参謀に敵するものは豊臣にはいないと、信繁は秘策を考え出します。
それが、女同士の和議会談でした。

制約が知恵を生む

どんなに状況が悪くなっても、常にその状況に応じてベストの軍略を考えだす。
そんな信繁に仲間の武将がしみじみと語りかけます。

「お前、凄えなあ」

打って出る戦略を立て、それが駄目になれば籠城で勝つ秘策を練り、それが和議により続けられなくなれば、今度はその和議を少しでも有利に進むよう手を考える。
制約があれはその制約の中、常に最高の打ち手を考えるのが真田の真骨頂です。
しかし、その和議は豊臣に非常な不利な状況をもたらしました。
真田丸は打ち壊され、大阪城は外堀のみならず、内堀まで埋められてしまいます。
そして、丸裸となりもはや城の防御機能のなくなった大阪城にまた関東方が押し寄せました。
大阪夏の陣の始まりです。
圧倒的に不利な状況の中、それでも信繁は徳川の本陣に迫り、ついに家康に自害を覚悟させるまでに追い詰めます。
しかし、いくつもの歴史のいたずらが重なり、最後は家康の勝利に帰し、信繁は自刃して果てます。
しかし、その最後の最後まで、制約の中で知恵を生み、持てるもので最高の戦略を立てて勝ちを諦めませんでした。その姿が、お茶の間の私たちにも頑張る勇気を与えたのだと思います。