今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

0.01パーセントの心の声(後編)

(写真:山鳩)

ピンク色の勇気

そして、その日も老女は電車の中に立っていた。
ヨシオは見るとも無しに、広げた参考書の端から老女の姿を捉えていた。
ん、何だろう?
老女が手を振っている。
「いえ、いえ」をするように。
やがて、ピョコリと頭を下げて老女の姿は人混みの向こうに消えた。
そして、代わりにピョンと飛び出して来たのは、ピンク色のカーディガン。
そう、ヨシオが気にしているあの少女だった。
(席を譲ったんだ。)
席を譲る、たったそれだけのことである。
しかし、そんなたったそれだけの小善が自分にも、周りの大人たちにもできなかった。
誰にもできなかったからこそ、彼女の小さな勇気が偉く思えた。
ましてや、それがあの少女だったから尚更だった。
ピンク色のカーディガンの彼女は、少しはにかんで薄く笑った。そして、「そんなたいしたことはしてないですよ」と言わんばかりに、手にした参考書にすぐ目を落とした。
その光景にヨシオは、少なからず衝撃を覚えた。

しかも、それからである。
少女は、毎日のように老女に席を譲った。それはまるで、老女のために席を温めて用意しているかのようだった。
そして、いつものように「いえ、いえ」と手を振るやり取りを老女は少女と交わしていた。最後にはいつも席をゆずっている少女の顔は、参考書に目を落として伏せていたが心なしか輝いて見えた。
ヨシオと言えば、少しでも長く彼女の姿を見られて嬉しいはずが、心の隅に後ろめたさが残るのをどうしようもなかった。

0.01パーセントの心の声に耳を澄ませよ

そんなことが、一週間以上続いた後、老女に席を譲った後に少女が軽く咳をした。
あいにくマスクの持ち合わせがないらしくスカートのポケットから白いハンカチを取り出して口に当てた。
顔が少し赤らんでいた。
熱があるのかも知れない。
彼女は咳を繰り返していたが、ついに辛そうにしゃがみこんだ。
思わず、ヨシオは立ち上がろうとした。
しかし、恥ずかしさがそれを押しとどめた。
あの老女は、すぐに立ち上がり彼女に席を変わろうとした。
だが、少女は首を横に振り、気丈に立ち上がって笑った。

「大丈夫」

そう言っているのだろう。
彼女は時折咳をするものの何もなかったかのようにつり革で身を支え、やがて老女より一駅前で降りて行った。

そして、やはり風邪をひいていたのか、次の日少女の姿はなかった。
その日老女はずっと立っていかなくてはならなかった。老女はその時、気遣わしげに当たり見回した。昨日辛そうだった少女が気になるのだろうか。
電車の速度が変化するたび、前に後ろによろつく老女がヨシオには気になってしょうがない。転倒をして怪我でもされたら、ヨシオはあのピンク色のカーディガンの少女に申し訳ない気がした。

次の日も少女の姿はなかった。
電車が地下鉄に連絡して、何駅も過ぎた時、乗り込んできた老女とヨシオは目があった。
その時、ヨシオに特別な意識はなかったかも知れない。スッと立ち上がって老女に近づいでいった。
まるで、だんだんに大きくなった心のノイズに押されるように。
自然に声もでた。

「おばあさん、今日は僕が代わります。」

老女は、ヨシオの顔を見てびっくりしたように目を開いた。しかし、次の瞬間嬉しそうに目を細めて、

「有難うねえ、どうしてあんたたちはそんなに優しいんだろうねえ。」

「いえ、あまり前のことです。」

心のノイズが素直に声にでた。
そして、わだかまっていたものが外に出て楽になった気がした。
なあんだ、最初からこうすれば良かったんだ。ヨシオは誇らしい気がした。

翌日。
その日、少女は姿を見せた。
顔に大きなマスクをして、顔も少し赤っぽかった。
やはり、風邪だったのだろう。
まだ、完全に治ってはいないのかな。
やがて、電車は夜の道を進み、駅に停車するとプシューッと音を立てて乗客たちを迎え入れた。
そして、その中に老女の姿があった。
すぐに少女はまだ病み上がりの身体を席から浮かして、老女に席を譲ろうと人混みの中か頭を出した。
しかし、その前にヨシオがスッと席を立って老女に座るように手で促した。
老女は、嬉しそうに目を細めて、ピョコリと深く礼をすると素直にヨシオの気持ちに応えた。
少女は、少し驚いたような顔をしてヨシオに礼を言った。

「あ、ありがと。」

「いつも気がついていたよ。たいへんだろ?これからは、僕も半分代わるから。」

それにニッコリと満面の笑顔を浮かべた彼女に、ヨシオはドギマギした。

「いつも、一緒だね。」
「うん。」

「どこまで行くの?」
「え・・・一高まで。」

「え〜、頭いいんだ。」
「う、うん!」

0.01パーセントの心の声、その声に耳を傾けて聞こえたのは、ヨシオにはとても嬉しくて誇らしい心の声だった。

(おわり)

私たちにも、いろんな0.01パーセントの心の声が聞こえます。
「こんなことばかりしていると後悔するぞ」とか、「正しい自分でいるためにはどうしたら良いのか」とか。
今は小さい声ですが、やがてノイズに思えたその声が後悔や自責の念になって鳴り響くことがあります。
小さくても、0.01パーセントの心の声に耳を澄ませいつも正しく振る舞えたら、後悔したり、間違うことはなくなるでしょうね。