今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

0.01パーセントの心の声(中編)

(写真:堂々たるみどり)

ピンク色のカーディガン

そもそも、片道1時間半、往復3時間も通学に時間をかけるのなら、その分勉強した方が良いと思うのだが、ヨシオの父親によればそうではないらしい。
彼は1日3時間を通勤に使って、しかもその間資格試験の勉強をした。
誰でも覚えがあるように、電車の中の勉強は至って効率が良い。そのおかげで、ヨシオの父親は会社では一番の資格ホルダーになっていた。
ヨシオもそのおかげかどうかは知らないが、成績は悪い方ではない。
そんなヨシオにも、最近密かな楽しみができた。
その日、ヨシオはたまたま電車が地下鉄に連絡したと同時に目を覚ました。そして、そこから2駅目に彼女は乗り込んできた。
それは他校の女子生徒で、開いている参考書が高1向けなのでどうやら同い年らしい。
今風な可愛い子とは違うけれど、ヨシオは一目見た時に彼女が心に飛び込んできた。
それは、北欧の少女のような儚げな外見をしていたからかも知れない。色白で、鼻すじが薄く、また唇もその色も薄かった。かわりに大きな瞳が顔の真ん中に二つ輝いていて、その目の下には隈のような薄っすらとした影が見えた。
紺色の制服の上にベージュのコートを羽織り、その下にはピンク色のカーディガンが覗いていた。そのピンクが彼女の白い顔にとてもよく映えている。
顔にかかる髪をかきあげる仕草も、ときおりあくびを嚙み殺そうとしている横顔も、おさげ髪の間からのぞく白いうなじも、ヨシオにはとても可愛く思えた。
それからと言うもの、ヨシオは少しでも彼女を目に焼き付けたいと、電車が地下鉄に連絡する前に目を覚まそうと努めた。
もちろん、電車の中でたまたま向かいに座るだけの関係に過ぎない。声をかけるわけでもない。しばらく心のうちに遊ばせるだけである。だから、少女に気取られぬようそれとなくちらちらと眺めるだけであった。
しかも、あと3駅も過ぎれば、乗り込んできた乗客によってその姿は隠れてしまうのだ。
そして、彼女がどこで降りるのかすらヨシオは知らない。ヨシオが電車を乗り継ぐために席を立つころには、彼女の姿はもうそこにはなかった。
彼女の姿が人混みの向こうに消えて、間も無く現れるのが、あの老女だった。
少女のシルエットは追えなくなり、老女の姿ばかりが目に映った。そして、手に提げた重そうな荷物と一緒に、お決まりの前のめりに倒れそうになりながらもなんとか踏ん張る動作を繰り返すのであった。

ノイズ

電車のアナウンスが流れる。
「高齢の方やお身体の悪い方に座席をお譲りください。」
それを耳にすると、少しチクリと心が痛む。
でも、ほんの少しだけ。
0.01パーセントの心のノイズだ。
それに、優先席に座って平気で大股を広げている中年男性や学生たちがいる。
彼らこそ、まず席を譲るべきじゃないか。
そのための「優先席」なのだから。
ヨシオにとって、老女は日常の小さなノイズだし、「席を譲った方が良いんじゃない」と言うのも小さな心のノイズである。
まるで、世界から老女を締め出そうと電車の乗客全員でカルテルを結んでいるように思えた。
だから、一個人のヨシオが抜け駆けをしてカルテル破りするのは、怖いと言うか、とても恥ずかしかった。
しかし、あいも変わらず老女は、前にのめったり踏ん張ったりを繰り返している。
本当に倒れでもしたらたいへんだ。
母方のひいおばあさんは、尻餅をついただけで腰の骨を折った。年寄りにとって、一番恐ろしいものは何よりも転倒である。
そんなことを承知でこのおばあさんは何をしているのだろう。それに家族はどうしてそれを許しておくのか。
いや、そもそも身寄りがないのかも知れない。
例えば・・・
行いの悪い一人息子がついに大きな罪を犯した。そして重い刑罰を受けた(例えば無期懲役とか)息子を、そのように育ててしまった責任を感じて毎日面会に行っているとか。でも、刑務所の面会なんて毎日できるわけないか。
それとも、息子の嫁が病気で入院したから、朝から息子の家族の世話をするために毎日通っているとか。
それはヨシオの想像に過ぎない。
だが、そう思わせずにおれない老女の疲れきった様子と、それをより感じさせる粗末でヨレヨレのなりをしていた。
そんな想像をするうちに、だんだん大きくなるノイズをヨシオは懸命に振り払おうとしていた。

(後編に続く)