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今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

全員参加のボランティア

(写真:朝顔)

精舎建立

昔、昔のこと、国一番の大金持ちが、一人の聖者に心服しました。
その聖者は、なんとか皆んなに自分の話を聞いてもらいたいと願っていました。そして金持ちは、聖者のために多くの人が集まって話が聞ける場所を寄進したいと考えました。
国中を探して、やがて静かで環境も良く、皆んなが集まって話を聞くのに良い場所が見つかったので、早速譲渡の交渉をしようと持ち主を調べました。
すると、持ち主はその国の王子で、しかもそこは彼が一番気に入っていた猟場だったのです。
再三、金持ちは譲ってほしいと要請をしましたが、決して売る気のなかった王子はそのたび断わりました。
しかし、決して金持ちが引き下がらなかったので無理難題を言って諦めさせようとしました。

「分かりました。そこまで言われるのならばお譲りしましょう。ただし、土地いっぱいに敷き詰めた金貨と交換です。」

さすがにいかに金持ちと言えどこれには肝を潰すだろうと思いきや、なんと金持ちは喜色満面、「分かりました」と言って蔵の金貨をどんどん運ばせるではありませんか。
そして、見る見る間に土地は金貨で埋め尽くされていきます。
これには、王子の方が慌てました。

布施の輪

「ちょっと待ってください。これでは、あなたが無一文になります。」

「いいえ、構いません。お金いくらあっても死ねば持ってはいけません。私はある方から、もっと大きな宝をいただいているのです。」

そして、金持ちは王子に聖者のこと、聖者が伝えている教えの尊さを聞かせました。
すると、王子もいたく感じ入って、「もう結構です。残りの土地の分は私に出させて下さい。土地の木々も建物を建てるのに使って貰って構いません」と協力を申し出ました。
かくして、金持ちと王子の尽力で、聖者の話を聞く広大な場所が完成したのです。
・・・
これは実話です。そして、その場所を今日「祇園精舎」と言います。
それは平家物語で「祇園精舎の鐘の声盛者必衰の理をあわらす」と書かれた有名な場所です。
精舎とは、今日の言葉で言えば聞法道場のことで、そこで教えを説いた聖者とはいうまでもないお釈迦様のことです。
このエピソードには続きがあります。
金持ち、つまり給孤独長者は、この精舎の建立に一人でも多くの人に参加して貰いたいと考えました。
そこで、町中の人に広く「精舎建立の志しのある人は、額の大小を問いません、どなたでも構いません。一人でも多く参加して下さい」と呼びかけました。

布施と税金は違う

町の人たちはビックリしました。

「確かに、お釈迦様の偉さはわかるけど、布施をするのは一部の金持ちがすることじゃないの?」

でも、なんでも良いと言うし、どれだけでも構わないと言うし、できることなら何かさせて貰いたい。
そして、町の人たちは給孤独長者の呼びかけに応じて、自分のできる範囲で、自分のできるものを持ち寄りました。ある人は反物を、ある人は食べ物を、ある人は労働力を。
当時でも、税金のようなものはあったでしょう。それは国から命ぜられて無理やり出させられるものです。
それに対して布施は、自分の気持ちから参加をするものです。少しの気持ちの人は少しだけ、大きな気持ちの人はたくさん、その人その人で構いません。
そして、そんな布施の経験がなかった町の人たちは、その機会をたいへん喜んだと言います。

全員参加のボランティア

自分のものを人に出して嬉しい?
損しているのに嬉しい?
当時の町の人たちの気持ちは少し分かりづらいかも知れません。
そもそも「布施」と言う響きが、葬式や法事に包む高額なお金を思い出させますし、誰も喜んでは出していません。
しかし、私たちにも経験があるはずです。
東日本大震災や熊本地震の時、悲惨な現場の状況に心揺さぶられて、少なからず義援金やボランティア活動に参加したではないですか。
あれは、誰に強要されたわけでもありませんし、自分のできることを精一杯させて貰おうと自発的な気持ちからだったはずです。
そして、その支援を誰も後悔はしていないでしょう。
まさに、祇園精舎建立当時の気持ちに通ずるものなのです。
それが時間が経つと関心が薄れ、被災地から避難してきた人に対して差別的な態度を取る人もいます。
これではマスコミの宣伝や、感情の高ぶりによって一時的には相当のことをできても、少し気持ちが冷めると全く他人事になってしまうと言われても仕方ないでしょう。
それは布施の精神ではありません。
布施は多寡を問いません。
ただし、布施は自発的で継続的なものです。
そんな布施本来の精神が根付いて、皆んなが少しずつ参加するだけでも、きっと世の中は変わります。