今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

文章は忠実に人の能力を写しだす

(写真:地のアゲハ)

取り繕えないもの

肩書きや経歴、あるいは所属している団体のネームバリューが、その人を大きく見せる。
上場企業の部長さん、あるいはMBAフォルダーのビジネスマン、業界でトップメーカーのエンジニアなど、立派なレッテルを貼られているととても偉く思える。
しかし、本当に大切なのはアウトプットである。
日頃どんなに立派なことを言ったり、「〜大学出身です」と鳴り物入りで登場しても、要はそれに見合ったアウトプットが出来なければ返って信用を落とす。
文章もその一つ。
昔は、字の綺麗な人はそれだけでとても賢く見えた。反対に自分のようにお粗末な字しか書けないものはとても損をした。
しかし、今は手書きが少なくなり、かわりに活字か、フォント。
字の上手い下手は関係なくなった。
そして、今度は文章の質がその人の評価を決める時代となった。

文章は忠実に人の能力を写しだす

『活字離れ』と言われた時もあった。
最近の若者は書籍に親しまないと嘆かれた。
もちろん、今も「本が売れない時代」である。出版社も作家も読者の激減に青息吐息の現状。
確かに、書籍の活字は読まれなくなったが、ネット空間を行き交う膨大な文字はフォントになって手のひらの端末からバンバン飛び込んでくる。
書き手はジャーナリストや作家ばかりじゃない。我々のような一般人まで、著述活動に加わっている。
ビジネスなら企画書や提案書。プライベートなら、ブログにSNSに、ツイッター。
おそるべき量の文章が1秒1秒生み出され、また消費もされている。
だから、今は文字と言う情報の海を泳ぐことを全員が強いられている。
そして、全員がヘビーな読者であると同時にヘビーなライターもやっている。
活字離れなんてとんでもない。
ますます文字にドップリではなかろうか。
その文字は文章となってコミュニケーションを行うことができる。
文章には、その人の思考力とか、着眼点とか、論理性が正直に現れてしまう。
「素晴らしい文章力だ」と言われると最高の褒め言葉、能力の高さを認められたことになる。

文章磨き

文章こそ、我々にとって一番手軽なアウトプットであり、同時に一番手強いアウトプットでもある。
立派な肩書きを持っていても、何を言っているかよく分からず、論点のまとまっていない文章を書くとガッカリされる。
よく練られていて、「成る程」と心に入る文章を書く人は評価も200パーセントアップである。
「評価されたければ文章を磨け」と言われる。
プロアマを問わず、わかる記事を書く人、わからない記事を書く人、伝わる文章を書く人、伝わらない文章を書く人がいる。それで、その人のスキルや人格まで露わになってしまう。
文章を論理立ててスッキリ書ける人や、読み手のことを考えて、表現や使用する言葉に気を使う人。リズムを大切にして、一言一言を読み手が心に落としやすいようによく文章を練る人。
知識のあるないでもない。頭の良し悪しでもない。誰からも評価されるのは、良い文章を書く人である。

自分磨き

しかし、そもそも文章を書くことは難しい。
思っていることの10分の一も言えないと言う。言えることのさらに10分の1も書けないと言う。
頭では分かっている。ある程度のビジョンは頭の中にある。それを自分以外に伝わるように話をするのが難しい。
しかし、話ならば双方向でやり取りできるから、ちゃんと伝わっていないと分かるし、その場合は言葉を足して、あるいは言い換えもして、なんとか伝わりづらいことを分からせることができる。
しかし、文章の場合、言葉を足しすぎたり、後から説明し過ぎたりすれば、余計に混乱もし、頭の悪い文章になってガッカリされる。
確かに、わかりやすい表現になるまで何度も推敲できるのは文章の利点である。いわば、荒削りの文章に何度もカンナをかけて、そこから読みやすい文章を削りだす感覚である。
しかし、その一手間を惜しむ人が多い。
特に、「人が理解できるか否かは二の次。とりあえず、自分が言いたいことだけ言いました」的な発言者がネットには多い。
その分からない言語系を共有しているところに集団の連帯意識があるのかも知れないが、やはりお互い貴重な時間を文章を通じて共有するわけだから、読み手がきちんと受け取れる文書を書きたい。
文章は読む相手あってこそである。
良い文章は、常に相手のことを想う気持ちから生まれる。
つまり、文章磨きは自分磨きである。