今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

凧が一番高く上がるのは、風に向かっている時である。風に流されている時ではない。(後編)

(写真:夜へと続く道)

二つの世界

なるべく周囲に溶け込めるように高価なものは身につけない。
電車通勤は許してもらえないので、唯一の移動手段のポルシェをわざわざ5分の場所に駐車して、会社までは歩いて行く。
昼食もみんなと馴染めるように、佐中清美のグループに入れて貰って社食で取るようにする。ただ、新人いきなり課長の違和感は簡単にはぬぐえない。
5、6人集まっている総務部女子グループの輪の中にはいても、会話の輪からは完全に外されていた。歌陽子(かよこ)がなにか喋ろうとしかけると、グループのリーダーと思しき市村真紀乃がニラムのだ。
歌陽子なりに努力しているのに、状況は改善しなかった。とくに、開発部技術第5課での仕事には神経がすり減った。
そんなある日、女子トイレで鏡に映った自分の姿を見て、歌陽子はゾッとした。
肌が荒れてガサガサになって、目尻には目立たないけど皺が出来ていた。髪の毛にはなんと何本もの白毛!
とても、20歳の顔に思えない。
そんな歌陽子の変化に会社も気づいて、ストレスチェックを受けるように言ってきた。
いかに、歌陽子が会社を辞めたくなるように仕向けてるとは言え、精神に異常をきたされてはさすがにマズイ。
そして、その判定は、50ポイントの悪化。わずか、一ヶ月でこんなに悪化するなんて、当の歌陽子のみならず、会社も相当肝を潰した。
すぐに、人事部に呼んで強制的に休暇を取らせた。
しかし、たとえ休んでも、復帰した後は決して待遇を変えないと会社に約束させるまで、歌陽子は絶対に首を縦に振らなかった。
何かあった時、やはり東大寺父は怖いので、結局会社は歌陽子の申し出を呑んだ。
そして・・・
会社から離れて自宅療養している歌陽子の日常は全く別世界だった。
家にメイドが増えていた。何かにつけ「お嬢様」と口にして、なんでもやってくれる。
毎日、友達がやってきては、気の利いたスイーツや高価なジュエリーをプレゼントしてくれる。
極め付けは、父親に3日とおかずに連れだされる財界人との会合だった。三葉ロボテクの10倍はある企業の社長が、歌陽子にまでうやうやしく手揉みして世辞を言う。
私、そんな価値のある人間じゃないのにと違和感を感じながらも、持ち上げられるのは悪い気持ちではない。
三葉ロボテクでの一ヶ月間はまさに悪夢だった。それに比べてここはまるで・・・天上界。
あ・・・。
その時、歌陽子は気づいてしまった。
これは、全部父親がこちら側の世界に呼び戻すための演出なんだ。
どうだ、こちらの世界はこんなに楽しくて、楽なんだぞ。なのに、なにを考えて敢えて暗く厳しい生活を選ぶのか。
だけど、あんな場所でも、自分なりに全力でぶつかっていた。
こちら側は幸せな台本が書いてあって、その通り演じているだけじゃない。
そんな気持ちを高ぶらせて、歌陽子は家をそっと抜け出した。

舞い上がる心

時刻はちょうど昼どきだった。
前田町は、いつも昼食を会社裏の公園で取っていた。
別に後の二人とソリが合わない訳ではない。ただ、昔からの習慣だった。
そして、食事の内容はいつも握り飯2個とたくあん2枚。なんとも質素ではあるが、5年前に妻に先立たれてから男手で用意するのだから仕方のないことだった。
無言でさも嫌いでたまらないものを食べているように顔をしかめながら噛んでは飲み込んでいた。
そして、その時歌陽子もそこにいた。
歌陽子は、そっと家を抜け出して街へ出た。
短大入学祝いに買ってもらったSクラスのベンツにも、20歳の誕生日祝いの真っ赤なフェラーリにも、そして通勤用の白のポルシェにも乗らず、電車と地下鉄を乗り継いで、気がつけば会社の前にいた。
そこは歌陽子が心を削られた辛い場所だった。しかし、父親によって作られた完璧な世界の外にある、小さいけれど歌陽子が自分で作った唯一の世界だった。
そして、
そこは風の吹く場所だった。
でも、まだ中に入る勇気はなかった。
けれど、外からでも自分の場所がまだあることを確かめたくて近くの公園まで来た。
いつか、また必ず戻ろう。その気持ちを忘れないために。
とりあえず、会社と技術第5課の姿を目に収めて帰りかけた時、公園のベンチの方からしゃがれた怒声が飛んで来た。

「おい!こら!メガネ!」

あ、前田町。もう昼だったんだ。
あちゃあ、この世で一番会いたくない人物に捕まってしまった。
走って逃げようか。 でも、ここで逃げたらもう二度と戻れなくなる。
意を決して、自分を奮い立たせるようにワザと「ハイ!」と強く答えて、前田町に向かって一歩一歩力強く(はなかったが)近づいていった。
でも、心はざわついてしょうがない。口の中が乾いてきた。どんな嫌味を言われるのだろう。
でも、向こうから声をかけてくるなんて入社以来なかったことだ。
そして、近づいて覗き込んだ前田町の目は、歌陽子が心の中で思い描いていたものとは異なり優しい色をしていた。
この人、こんなに優しい目をしていたんだ。
今まで、態度や声が怖くてまともに目を合わせたことがなかった。
近くにきた歌陽子に、前田町の方から声をかけてきた。

「なんだ、元気そうじゃねえか。」

「はい、ご迷惑をおかけしています。」

「いいってことよ。あんたよく頑張ったと思うぜ。あんたが外れた後、後任に第4課の課長が兼任で来たけど、大の男が一週間と持たなかったもんな。
金曜日に顔色が悪いなと思ったら、もう月曜日には転属願いよ。」

「わ・・・私の場合は、他に行く所がないから。」

「そうかい?あんたなら、オヤジさんに頼んでもっと大きな会社の経営者にでも据えて貰えるんだろう?もう少し勉強して、MBAの肩書きでも取って、あとは目端の効いた婿でも貰って、実際はそいつにやらせればいいんだろう?」

こんなに前田町が饒舌な人物とは知らなかった。歌陽子は少しずつ肩の力が抜け始めていた。それで、つい要らないことを言ってしまった。

「前田町さんって、父と同じこと言うんですね。」

「ん?バカ言え。一般論を言ってるんだ。お前のクソ親父と一緒にするな。」

不倶戴天の敵と一緒にされ、前田町の表情は明らかにけわしくなった。
それで、慌てて、歌陽子は持参したポットのコーヒーを勧めた。
「あの、コーヒーはどうですか?」
「はあ、気が利かねえのは相変わらずだな。握り飯には茶と相場が決まっているだろ。」

「す、すいません。」

「すぐ謝んな!それがあんたの悪い所だ。まあいい、一杯よこしな。」

そして、歌陽子は持参したポットからコーヒーをカップに注いだ。
香ばしいコーヒーの香りが周りに広がる。湯気を立てているコーヒーのカップを受け取ると、一口すすって前田町が漏らした。

「うめえ。」

「はい?」

「うめえって言ってるんだよ。まったく金持ちってのはどうしてこう何でもかんでも上等なもんを食ったり呑んだりしてやがんだ。
でもよ・・・。」

そう前田町は言葉を切った。

「野田平や日登美のジジイたちにも飲ましてやりたいな。あいつらもよお、オレとおんなじで侘しい飯しか食べてないのよ。なんかコーヒー一杯で急にご馳走を食べた気にするなんざ、やっぱり金持ちってえのは凄えなあ。」

「じゃあ、今からでも。」

「待ちねえ、そう急ぐなよ。俺があんたの居場所を十分温めておいてやるから、それからでもいいだろ。まずは、今はゆっくり休め。」

「じ、じゃあ・・・。」

意外な前田町の言葉に歌陽子の鼻の頭はみるみる赤くなった。
涙が溢れているのか、丸眼鏡が白く曇っていた。

「そう言うことだ。あの二人にはオレからあんたにちゃんと協力するように言っておくからな。」

「でも、前田町さん、私の父のこと嫌いだったんじゃ・・・。」

「あんたとオヤジさんは別だ。それが一ヶ月付き合ってよく分かった。
そうだな、例えばあれだ。あんたが持ってきた電動アクチュエーター式の義足だ。
こんな仕事は、今までうちのヤツらから来た試しがない。」

「父の知り合いの大学の先生からたまたま相談があったんです。うっとおしいくらい技術バカのエンジニアでなきゃ務まらないから、誰かいい人知らないかって。」

「まあ、うっとおしいは、余分だがな。」

「あ、ごめんなさい。」

「どこかの大手製作所の下請けばかりでつないでいたら、会社の底力ってもんがなくなっちまう。だから、こんな未来に向かって志のある仕事は大歓迎だ。
そうだ、あんた、いっそオヤジさんに言って社長にして貰えばいい。あんたが社長なら、オレら一生懸命応援してやるぞ。」

あはは、無茶言わないで。すぐ会社が潰れてしまうわ。
折から、公園を一陣の風が吹き抜けて、誰かが捨てて行ったチラシを舞い上げた。
色合いの鮮やかなそのチラシを歌陽子の目が追った。

「なあ、あんた、風が強く吹くと人間はふた通りの振る舞いをする。
一人は風に晒されないように地面に伏せてやり過ごそうとする。でも、もう一人は、風を受けて高く舞い上がることができる人間だ。
あんたは、後の方だな。」

前田町のそんな言葉にコクリとうなづいて、歌陽子の目はいつまでも青空を舞うチラシを追いかけていた。

(おわり)

とりあえず、東大寺歌陽子シリーズ、プロローグ終了と言った感じです。
強い風を受けて、凧揚げをしているイメージを、世間知らずの丸眼鏡女子歌陽子が一生懸命世間の逆風に立ち向かっている姿になぞらえました。
確かに、強い風に晒されたら、正直テンパりますし、早く風が止んで欲しいとばかり思います。
しかし、風に乗って周りを見渡すと、まるで周りの風景が違うことに驚かされます。
そう強い風は、私たちを短時間で高みまで押し上げるのです。