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今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

人を責めず、方法を責める

(写真:夜想)

失敗が起きた時

例えば、仕事でミスがあった時、どんな私たちはどんな行動を取るでしょう。
よく政治に絡むサスペンスドラマでは、まずいことが発生すると担当者は間髪を入れずに上司に連絡をしています。
「すぐに局長につないでくれ」と指示をして、上司につながれば「実はまずいことが起きまして」と神妙な顔で電話口に向かって報告をします。
それを見るたびに、「実によく訓練されているな」と感心をします。
と言うのも、まずいことがあれば、特にそれに自分が少なからず関わっている時は、少しでも事態を収拾してから報告したいものだからです。
それを事態が十分把握できていない、だから一番最悪を想定して報告しなければならない、そして一番厳しく叱責を受けるタイミングですぐに報告できるのは凄いと思います。
つまり、恥ずかしいことに私のようなツマラナイものの場合、ミスを少しでも小さく見せようとすることばかり考えてしまいます。あるいは、自分がとばっちりを受けた立場なら、すぐに犯人探しの心が動き出します。

犯人探し

「自分がとばっちり」と書くと、責任のないことで被害を受けているように聞こえますが、例えばミスをしたのが部下だったらどうでしょう。
確かに、自分に直接的な責任があるわけではありません。だから、そんなことで叱責をされるのは敵わない。そして、「なんでそんなことになっているんだ、バカモン。誰が悪いんだ?」と感情をぶつけたり、あるいは犯人探しを始めたくなるのも無理はありません。
しかし、それは二重の意味でよろしくありません。
まずは、報告のリレーを急いでしなくてはならないのに、バトンを受け渡すたびにそんなことで時間を使っていたら、最終報告までかなり時間がかかるでしょう。
実際、アメリカ国内でエボラ出血熱の感染者が発見された時、24時間以上も遅れて報告を受けたオバマ前大統領は、担当官をかなり厳しく叱責したそうです。
そのインパクトから考えて国内にどんな波紋が広がるか分かりません。だから、大統領としては一刻も早い報告が欲しかったのです。
あと、失敗するたびに「犯人は誰か?」と問い詰められたら、部下は事が起きた時に報告が億劫になります。場合によっては隠蔽も考えるでしょう。
結果、これも報告を遅らせる要因となります。

人を責めず、方法を責める

ならば、この報告のリレーを速やかに行い、対処を早めるにはどうしたら良いのでしょうか。
そして、上司も部下も、前向きに問題に対処するためにはどうしたら良いのでしょうか。
それは、「人を責めずに、仕組みを責める」ことだと教えられます。
例えば、先端技術が集積しているはずのクラウドのデータセンターにもまだまだ手作業は残されています。かなり以前ですが、そのデータセンターのメンテナンスをしていた技術者が、手順を間違えて顧客のデータを大量に消去してしまったことがあります。
その影響は大きく、クラウド業者のみならず、そのデータセンターを使用してサービスを提供していた会社の信頼までも大きく損ないました。その被害はお金に換算しきれるものではなかったでしょう。
そして、その作業を行った担当者に対するペナルティーもかなり厳しかったと想像できます。
しかし、クラウド事業者も、それを利用していた企業も、直接原因になった相手を責めるだけでは済まされません。
そもそも、そんな危険な手作業がなぜ常態化していたのか、あるいは、なぜそんな危険な運用をしている事業者に任せていたのか。その仕組みとしてのまずさを明らかにして、対策を明確にしなければ、決して外部の責任追及は止むものでは有りません。

正しく行えば、結果も正しい

人や特定の業者に原因を求めているうちは、真の問題解決は行われません。
なぜなら、「やり方は問題なかった。担当がまともなら、決して失敗などしないのだ。」と原因追及をやめてしまうからです。
それでは、担当者により精度が著しくバラつき、企業として安定したサービスの提供は覚つきません。
やはり、どの担当者、どの事業者に委託しても間違いなく正しい結果となるように仕組みを作ってこそ、本当に強い企業であったり集団となれるのです。
とは言え、失敗した担当者は反省をしなくて良いのかと言えばそうでありません。
常に失敗や不都合の責任は全員で共有しているのが本当です。
担当者には担当者の、その上司にはその上司の、会社には会社の責任があり、安易にそれを転嫁してしまったら、それ以上の向上も改善もありません。
その意味で、誰もが失敗を起こりうることだと認識し、また改善に参画する意識として、「人を責めずに、仕組みを責める」は大切な心構えなのです。