今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

豊かになればなるほど、幸せになりにくく、不幸せになりやすい

(写真:ビルの中の空)

世界が輝いていた頃

今でも時折「子供の頃、なぜ世界はあんなに輝いていたのか」と思います。
週休一日だったけれど、明日が日曜日の夜の高揚感。なにか起きるんじゃないかとワクワクして、眠るのも惜しい気がしました。
小遣い以外に、両親の気まぐれで与えられた100円玉の価値。当時の自分にとっては、実に小遣いの3日分に相当し、途方もない大金に思えました。握りしめて近所の雑貨屋に走れば、あれも買える、これも買える。
結局手にしたのは、100円で買える合体ロボットの組み立てキット。パチンパチンパチンで出来上がる簡単なものでしたが、とても嬉しかった。
たまに、500円から1000円のプラモデルを買い与えられ、箱を開いた時の幸せな気分、セメダインのシンナーの匂いまでがワクワク感を掻き立てます。
子供の自分にとって、プラモデル作りほど幸せを感じる時は存在しなかったでしょう。
それに比べて、この間8万でノートPCを買い換えましたが、箱を開いた時の感動は値段に反比例して、プラモデルとは雲泥の差がありました。

満たされない心

実は、この「幸せ感」は、物量や金額とは無関係です。
分かりやすく言えば、千円で1喜べたら、1万円で10喜べる、1千万円で1万喜べるとはならないのです。
子供の頃は、大人の目から見たらつまらないものでも喜べました。それは、他に大きな幸せを知らないから、どんなものでも新鮮な喜びがあるからです。
一度大きな喜びを経験してしまうと、それ以下の幸せでは、もう前のようには喜ぶことはできません。幸せに対して麻痺してしまうからです。
その証拠に、昔は五百円も貰ったら飛び上がって喜べたのに、今はどうでしょう。もちろん、今と昔は貨幣価値が違いますが、喜べない本当の理由は、私たちが幸せに対してそれだけ不感症になっているからです。
まるで、最初の頃はよく効いていた抗生物質が、投与を続けるうちにだんだん効力を失うようなものです。
また、幸せを感じにくくなっていると言うことは、同時に満たされない気持ちが大きくなっていることでもあるのです。

不安と不満

私たちは、セレブを見て「あんなにお金もちになれたら、どんなに幸せだろう」と想像します。
しかし、それはお金やものに不自由している身での想像です。私たちは、十分なお金やものに慣れていないので、それだけ幸せに対する免疫がないとも言えましょう。
それが、毎日札束をわしづかみにして、高級スーツと高級車で外出、絶世の美女と高級バーでドンペリを浴びるほど痛飲する、なんてことを繰り返していたら、人間はすっかり幸せに不感症になります。
そんな麻痺した人たちと、小さな幸せでも素直に喜べる私たちが、大金を目の前にした時の心が同じであるはずがありません。
そう言えば、なぜ洋の東西を問わず、セレブや芸能人の麻薬報道が絶えないのかと不思議でしたが、幸せに麻痺した心に喜びを与えるものはもはやドラッグ以外にないのでしょうか。
そう考えれば、たくさんのお金やものに囲まれ過ぎるのも考えものです。なぜなら、自ら幸せに対する感覚をどんどん麻痺させているのですから。
そして、得たものが大きい分、満たされない不満と、失った時を恐れる不安に苛まれるのです。

幸せと幸せの材料の違い

幸せの本質は、お金やもののような「目に見える幸せ」ではありません。
幸せとは、私たちが感じる「幸せ感」そのものです。
つまり、外界の状態や物質の多寡によらず、私たちの心が満たされ、安らぐことができれば、いつでも何処でも、誰とでも幸せになれるのです。
しかし、悲しいかな、私たちの心は外界の事象でどうとでも変化します。だから、外界や目に見えるもので幸せになれると考えるのは無理のないことなのです。
その意味では、一応お金やものは「幸せの材料」と言えます。かき集めれば、程度の差こそあれ、私たちに幸せな気持ちを起こすことができるのですから。
しかし、その「幸せの材料」と「幸せ」は別物であると切り分けておかなくてはなりません。
海に漂流している時、飲み水が尽きたからと海水を飲んだらどうなるでしょう。
一時は喉を潤しますが、やがて塩水でひりつくような渇きを覚えます。それで、さらにガブリガブリと飲むと、また喉の渇きは酷く増すのです。そして、渇きを癒そうと海水を飲み続けた結果、その人は命を落とします。
そのように、「幸せの材料」を求めるほど、満たされない渇愛の感情は増し、「幸せ」からは遠ざかります。
それは、決して幸せでない晩年を迎えた幾多のセレブたちの実例に明らかです。
「幸せの材料」はなくてはならないものですが、「幸せ」とは別物であるとよく自戒して、本当の幸せを見失わないようにしたいものです。