今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

間違っていることを認め、かつそれを受け入れる

(写真:ひぐらしの鳴く地)

なぜ人間は苦しむか

人間界で一番苦しいのは、人間関係だと言われます。
子供の世界では、お金をたかられたり、肉体に暴力を受けることがあります。それは、子供社会での人間関係の苦しみです。
もちろん、大人社会でそれは許されません。気に入らない相手でも手を上げたら、法律で罰せられます。
それを子供の目から見た時、大人は暴力やイジメがない平穏な世界に生きているように思えました。それを母親に「大人はいいなあ、皆んな仲良くしているから」と言ったら苦笑いされました。
そう、大人にも深刻な人間関係はあります。
しかも、子供以上に自分に対する周りの扱いが気になります。
特に「お前は間違っている」と指摘されると、「そうか、俺は間違っていたのか。よくぞ教えてくれた」と口では言っても、腹底では「よくも俺のことを否定したな」と煮えくりかえります。
どんな至極もっともな注意でも、決して笑っては聞けません。
こんなことが苦しみのタネになりますから、実に人間は厄介な生き物です。

正しさの牢獄

なぜ、人の言うことを素直に聞けず、心で何度も反発して苦しむのか。
それは「自分が間違うはずがない」と自惚れているからです。
しかも、その自惚れを命のようにしっかり握りしめています。
現に自惚れている証拠は、平気で人のことを批評できるではありませんか。テレビに出ている優れた人に対しても、本人に聞こえなければ平気でダメ出しをしています。
では、自分はその人以上に立派な人間だから批判できるのでしょうか。
そんなはずはありません。
しかし、自分の中では、この世で自分以上に偉いものはいないと思っているので、平気でプロの歌手に下手くそと言ってみたり、野球選手を二流扱いして一人堂に入っています。
もちろん人前では謙虚なふりをして、そんなことはおくびにも出しませんが、腹底でふんぞり返っているので、逆に人からダメ出しされるととても許すことはできません。
自分の「正しさ」は自分の命ですから、その命を汚した相手に猛然と反発します。
されてるしこの「正しさ」への執着心は自分を縛る牢獄のようです。

間違いを認め、受け入れる

自分が叱られた時のことを思い返してみます。
自分のおかしな言動を近しい人から注意されたらどうなるか。
一応、大人ですから大人らしく「済みませんでした」と素直に謝ります。
その時はそれで場が収まりますが、後から厄介な奴がムクムクと姿を現します。
「なんだ、あいつは偉そうに。どの口で、あんな偉そうなことを言うんだ。だいたい自分はどうなんだ。俺以上にダメじゃないか。」
これは自分がそう思いたくて思っているわけではありません。むしろ、理性では注意をしてくれたことに対しては感謝し、反省をしようと思っているくらいです。
しかし、感情は真逆に走り出します。
自分の「正しさ」を否定された怒りが渦巻き、ことあれば相手を陥れようとすら思います。こんな心がバレたら大ごとですね。
そして、一晩も二晩もムカムカして過ごさなくてはなりません。
しかし、それでは余りに苦しいので、少し感情が冷静になった頃を見計らって、「やはり間違っていたのは自分だった」と受け入れると、スーッと今までの苦しみから解放されるのです。

受け入れてしまえば楽になる

そう、人を憎み呪うのはたいへんなエネルギーが必要です。
悲惨な事件が起きた時、殺された人の遺族が記者の前で気持ちを打ち明けています。
「以前は犯人を殺してやりたいと言う心しかありませんでした。しかし、今はただ罪を悔いて償って欲しいと思うばかりです。」
別に犯人の罪が消えたわけではありません。
ただ、いかに大切な家族を殺された遺族と言えど、憎しみ呪い続けるのはたいへんな苦しみを伴うのです。
そして長い間苦しんだ今は、ただその呪縛から解き放たれたいと思うのでしょう。
それと比べては申し訳ありませんが、私たちも自分の「正しさ」にしがみついて、それを否定されたことを怒り憎んでいる間は苦しみが続きます。
自分が間違っていると認められないから腹が立つのですが、「あいつは悪いヤツだ」と向けた自分の指を良く見てみると、なんと中指、薬指、小指は自分を指しています。
それで自分は何と矮小な「正しさ」にしがみついていたかと反省して、初めて苦しみが抜けるのです。
自分が今心が苦しくて辛い時、その苦しみの原因は本当に相手なのか、あるいは間違いを認められない自分のつまらない意地や我慢なのか、それを見つめたら心は変わるでしょう。