今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

相手の意見に対してのみ反論する

(写真:思い出横丁)

誤字脱字、揚げ足取り

誤字、脱字は一番恥ずかしい。
私たち、お客さんに文章を作って出す立場のものは、お互いそう戒めあっています。
出版物なら校閲、私たちシステム会社ならばレビューと言う仕組みを作って、恥ずかしい誤字や言葉の誤用が外に出ないようにチェックをします。
ただ、初稿を起こす立場から言えば、最初作るだけで一杯一杯。誤字や脱字まで気にしている余裕はありません。特に、途中で表現を変えたりすると、他の箇所にも影響が出て、その変更漏れがないようにチェックするのは結構しんどい。
期日に追われていたりすると、甘めの校正でレビューに回すことになります。
すると、ほぼマイページ、誤字や不統一表現が見つかって、ついにレビュー担当は堪忍袋の緒を切ります。
それで、相当のことを言われて、こちらもカチンと来る。挙句に、「今度自分がレビューを担当する時は見ておれよ」と手ぐすねを引いて、いざ相手のミスを見つけるや、「そら、見たことか」と反撃する。
そうすると、お互い依怙地になって、挙げ足取りの収集がつかなくなります。

コーナーポストで殴らない

誤字脱字は、確かに良くないことですし、全体の効率を考えたら、初稿段階で極力落とさなければなりません。
お互い、その感覚を磨いておくのが、プロとしての嗜みです。
しかし、誤字脱字のような明らかに反論できないミスに対して、執拗に相手を追い詰めるのは正しいことではありません。
反論できないのは、明らかな事実だからで、しつこく言わなくても相手にはキチンと伝わるものです。
反撃できない相手を追い詰めるのは、まるでボクシングで相手をコーナーポストまで追い込んで殴り続けるようなものです。
そうされたら、相手は反省どころか、こちらに恨みを含みます。まともに聞く耳など持てないでしょうし、今後の人間関係にも影響します。

相手の意見に対してのみ反論する

これについて議論術の本には、「相手の意見に対してのみ反論せよ」と書かれています。
この本はプロの弁護士の手によるものです。
弁護士の議論の場は法廷です。
例えば民事訴訟では、企業間の係争事案について、両企業を代表する弁護士同士が議論が交わします。
法廷では相手の間違いを指摘しつつ、同時に互いの妥協点を探って落とし所を見つけようとします。
だから、一方的にやり込めるだけでは弁護士としての仕事を果たせません。
その前提で法廷闘争は行われます。
間違いを指摘する場合でも、相手が既に気づいて間違いと認めている事実については触れずにおきます。
「こんなバカな間違いをするあなた方は、弁護士としてはどうなんですか?」と言う攻撃は心象も悪く、また相手も心を閉ざしてしまいます。
間違いを間違いと認めないこと、いわゆる相手の意見に対しては反論をします。
そして、客観的にシロクロついたら、それ以上反論はしません。
あとは、法廷の判断に任せれば良いからです。

反論や叱責の要点

つまり、議論や反論は、シロクロ、趨勢がハッキリしない時に行うことであり、客観的に判定がつけば、それ以上の追求や反証は無意味です。
もし、それでも言い張るなら、むしろ相手が恥をかくだけです。
私たちも、人に反論したり、叱責をする場合はこの点に気をつけねばなりません。
相手が非を認め、間違いを認定していることについて、殊更に追い詰めると返って反感を招きます。
反論や叱責の目的は、相手が気付いていない間違いを指摘し、もう二度間違わないように予防することです。
相手が客観的事実として自分の間違いを受け入れた段階で当初の目的を達しています。
それ以上、何か言うとしたら、それは自分の感情です。
腹が立っても、人との関係には私情は禁物。
自分は相手の意見に対してのみ反論しているか、感情に振り回されないためのチェックポイントとして気にかけたいことです。