今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

福島の責任

(写真:しゃぼんカラフル その2)

国難

2011年3月11日。
あの東日本大震災が、東北・関東を襲いました。
マグニチュード9と言う想定を遥かに超える大地震は、続いて東北の太平洋沿岸地域に大規模な津波を引き起こし、日本の災害史上かつてない2万2千人超と言う死者を出しました。
そのニュースに、地震から直接被害を受けなかった私たちは、これは本当に日本のことなのか、と愕然としたのを覚えています。
しかし、それは悪夢の始まりに過ぎませんでした。
津波に見舞われた福島県双葉郡大熊町の福島第一原発は、予備も含めてすべての電源を失い、完全に電気制御の手段を無くしました。
原子炉は地震で自動停止しましたが、核燃料は運転停止後も膨大な崩壊熱を放出するため、ポンプで冷却水を注入する必要があります。しかし、そのポンプも電気制御であったため、注水ができなくなり、空焚き状態になった炉内では核燃料が自らの熱で溶け始めました。
そして、高熱の溶解核燃料は原子炉格納容器に穴を開け、外に漏れはじめました。
また、そのメルトダウンの影響で発生した大量の水素が、原子炉建屋、タービン建屋各内部に充満しました。そのガス爆発により、建屋、及び周辺の建物は大破、その一連の事故で大量の放射能が周辺に流出したのです。
結果、福島第一原発の周辺住民は強制退去させられ、帰還の見通しも立ちません。
それどころか、原子炉は廃炉の目処が立たなず、いつまでこれが続くのか、果たして放射能はどこまで拡散しているのか、全く想像もつかない状況です。
当時、これを「国難」と表現した政治家がいましたが、まさに国の根幹を揺るがす大事でした。

電力会社の責任

この原子力発電所の事故を引き起こしたのは、もちろん地震と津波でした。
しかし、これを天災でなく、人災と言う人がいます。
それには、いくつか理由があります。
そもそも、福島第一原子力発電は、今回のような大規模な津波が起きれば、原子力事故を引き起こし兼ねないと指摘されていたのです。
ただ、その対策にはたいへんなコストがかかるため、電力会社としては想定外の津波に対して費用をかけられませんでした。
国は、何度も指摘しながら、それを無視し続けた東電の責任だと言います。
確かに、周辺住民の立場から言えば、想定外の苛酷災害まで含めて対策をして欲しかったことでしょう。
ただ、それは事後の後悔です。
もし、震災の前に本気でそれに取り組む会社があれば、果たしてどれだけの人がそれを許容できたでしょう。
まず株主が許しませんし、もし国の予算で対策しても、税金の無駄遣いだと叩かれたでしょう。
ただ、それを理解しても、この東京電力の引き起こした災厄はあまりに重く、あまりに多くの人間がそのツケを払わされています。

地元の責任

あと、福島第一原発周辺の人たちはどうなのか。
地元の人たちは、どう考えても理不尽さの被害者です。
自分たちが人生をかけて積み上げてきたものを、自分以外の原因で無理やり取り上げられるからです。
苦労して建てた家を残して、故郷を遠く離れた異郷の地で侘しくアパート住まいと言う人も数え切れません。
人生を補償して欲しいと、そんな思いに苦しんでいます。
しかし、中にはそれまで、福島第一原発に感謝していた人もいるでしょう。
原子力発電所を受け入れることで、町はとても重いリスクを背負い込むことになります。
だから、その見返りとして、地域には多額のお金が落ち、住環境は整備され、就職にも苦労せずに済みました。
当初は、地域住民の反対運動もあったでしょうが、日本の電力供給に貢献していると言う自負心や、国のプロバガンダ、そして安全神話を信じて、すっかり安心していたのではないでしょうか。
これは、誘致を進めた町の有力者だけの話かも知れません。しかし、そこに今回の遠因を求めたら叱られるでしょうか。

私たちの責任

そして、最後は国の責任。
私たち国民一人一人の責任です。
想定外の苛酷災害に備える必要がある原子力発電所。
それは裏を返せば、それだけリスクを負って日本中で運用しているものです。
今思い返せば、核廃棄物の処理問題や事故発生時の被害の大きさ等、未解決の課題を抱えながらの見切り発車だったことが分ります。しかし、事故前までは私たち自身、すっかり国や電力会社から刷り込まれた安全神話に身を浸していました。
ますます加速する電気依存社会。電気はもはや私たちの生活には無くてはならないものです。その電気を安く安定して提供して貰える原子力発電にリスクを感じながら、その実完全に許容していたのではないでしょうか。
さらに、化石燃料から放出されるCO2が引き起こす地球温暖化、その対策の旗手としても期待し、信頼を寄せてもいました。
おそらく、電力会社からも、地元の人たちからも、そんな矛盾した私たちの論理はかなり腹立たしく思えることでしょう。
つまるところ、福島に端を発するこの国難は、私たち今を生きているすべての人間に広く責任があるような気がします。
そして、そのツケはこれからの世代である子供たちに回ります。
ことさら、欲望を追求した20世紀後半から21世紀の今、のちの世代から身勝手なひどい大人たちがいたと言われないように、これからの生き方を考え直す時期であるようです。