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今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

謙虚こそ最高の先生

(写真:山の集落)

見えているのに見えないもの

見えているのに見えていないもの。
例えば・・・
決算資料の都合の悪い数字。
健康診断の要改善の項目。
自分の明らかにダメなところ。
同僚の立派な仕事。
下に見ていた相手の偉いところ。
・・・
目の前にあるから、間違いなく目に入っているはずが、実は全く見えていない。
目に入っても、認識したかどうかは別である。
目は映すものだが、認識は心がする。
目には映れていても、心が受け入れなかったら、それは見えていないのと同じである。

目を塞ぐのは何か

見えないのは、心の目が塞がっているから。
心の目が塞がっているとは、自分の欲や都合が群雲のように現れて、見たくないものを隠している状態。
そして、自分にとって都合の良いものだけを見ている状態。
例えば、自分が気持ちの上で負けたくない相手がいて、彼の悪いところは目につくが、良いところは目に入らない。
すると、ますます嫌でダメな奴に思える。
そして、周りが彼のことを褒めているのを聞くと、何故あんな嫌なヤツがそんなに人気があるのか分からない。
分からないのも道理、彼の偉いところが全く目に入っていないのだから。
私たちは、この欲目や都合でどれだけ世の中を間違って見ていることだろう。

目を開くとは

「ああ、困った」と口にする。
「何が困ったのさ」と人が聞く。
「いやね、このやり方が分からないんだ。」
「ああ、それなら彼に聞けば良いじゃないか。」
「彼ねえ。」
「どうした?」
「いや、別に・・・。」
彼とは、自分が面白く思っていない相手。
だから、ものを聞くのは癪に触る。
それに、自分が見えている世界の中では、自分が彼に負けていることなんか一つもない。
だから、上の人間が、下の人間に聞くことなんかあるもんか。
そんな煮えたつように癪な思いを抱えながら、反面冷静な自分が言う。
「ほんとは分かっているだろ。彼に聞けばすぐに分かるって。」
「つまらん意地や我慢を通しても、損をするばかりだぞ。」
「別に彼が偉かろうが、偉くなかろうが、自分の価値は変わらないし、自分に対する周りの評価も変わらない。」
「むしろ、素直に頭を下げて教えを請えば、それだけ近づけると言うもんじゃないか。」
そう散々逡巡をしながら、少しずつ心の目が開いていく。

謙虚こそ最高の先生

そもそも人間の人間に対する評価とは、第一印象や、人から吹き込まれた事前情報で出来上がっている。
それが意地や我慢、欲目や都合で強化されて定着する。
ダメなヤツ。
確かに残念な人もいるにはいるが、往々にして、それは自分にとって「ダメなヤツ」でいて欲しい相手。
だから、ダメなところばかりが目について、「ダメ」の評価がますます定着する。
「人は見た目が十割」と言った人がいる。第一印象でダメなステレオタイプにはめられてしまうと、なかなかそこから抜け出すのは難しい。だから、十割論もあだやおろそかにはできない。
しかし、その人の本質はハダカでぶつかってみなければ分からない。
嫌な言い方をする、嫌な視線を送る、嫌な顔つきの嫌なヤツ。でも、相手の心に飛び込んで、親しく会話をすれば、その偉さに頭が下がる。
ダメと見下していた残念なあいつ、でもよくよく聞けば、たいへんな事情を抱えながら、それでも頑張っている健気さに心打たれる。
世界はシンプルだ。
世界と自分、あるのは、たったその二つだけ。
そして、五感を通じてつながっている。
世界は巨大なデータベース、謙虚に頭を下げてつなぎさえすれば、いろんな情報を与えてくれる。
世界に与えれば、世界もまた返し、世界を拒絶すれば、世界もまた拒絶する。
だから、意地や我慢で壁を作らず、世界に自分を開く。
そう、謙虚こそ最高の先生なのてある。