今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

消費者と生産者

(写真:ハイ・クレーン その2)

消費者であり生産者である

現代社会で都市生活を営んでいる私たちは、常に二つの顔を持ちます。
それは、消費者の顔と生産者の顔です。
例えば昔、流通が今ほど行き渡っていなかった時、農村部では基本自給自足でした。
握り飯が食べたいと思ったら、田を耕し、モミだねを撒き、稲を育て、田植えをし、そして秋の実りを待ちます。
頭を下げた稲穂を刈り、脱穀をし、さらに精米をして、最後火にかけてご飯を炊き、固く握って皿に盛ります。
本来、握り飯ひとつ食べるにもこれだけの労力が必要ですが、現代社会では100円、乃至200円を握りしめてコンビニに行くだけです。
どうして、私たちはこんなに簡単に握り飯を食べることができるのでしょう。
それはひとえに物流の発達と、社会的分業のおかげです。
私たちは、消費者としてありとあらゆる恩恵を受けることができます。しかも生産者としては、その消費財のわずか一つを担うだけで良いのです。

突然、見えなくなるもの

この社会的分業は、時に私たちを危機に陥れます。
それは、災害等でインフラが破壊された時に露わになります。
私たちは、何かの生産者であり、同時に専門家なのですが、それ以外は生産の術を持ちません。
いくら材木があっても家を建てることも叶わなければ、魚を手に入れても捌いて食卓に乗せることもままなりません。
私たちが持ちあわせないこの生産の力を補ってくれるのは物流ですが、それが災害の時には機能しなくなるので、私たちは一様に途方に暮れるのです。
さて、この便利な都市生活に慣れすぎた私たちは、あまりに消費者であることにも慣れてしまっています。
普通に高いサービスを受け、それが至極当たり前になっています。
今日頼んだら夕方届いて当たり前。お腹がすいてコンビニに駆け込めば、すぐにお腹が満たせて当たり前。
その当たり前消費社会で、今度は自分が生産者の立場に立つことになります。
ところが困ったことに、生産者になった途端、急に消費者の気持ちが見えなくなってしまうのです。

自分に正直なモノづくり

自分が消費者の時は、「ここまで出来て当たり前」とか、「こんな痒いところに手が届く優れもの」とか言って、一端の企画マンになっています。
ところが、いざ生産者の立場に立つと、「こんなものだろう」「そこまで求めてくる方が悪い」と真逆の立場に豹変します。
よく企業では、今顧客が何を求めているか分からない、と口にしています。でも、本当に分からないのでしょうか。
私たちは、生産者であると同時に、消費者なのです。そして、消費者としてどうして欲しいかは、分かりすぎるほどに分かっているはずです。
それが、どういう訳か、生産者の立場に立って途端見えなくなるのです。
考えてみれば不思議なことです。
まるで、壁の表から裏に回り込んだようなものです。
裏に回ったら、今まで見えていたものは見ることができなくなります。
ならば、壁の表に身を置いたままで、自分の気持ちに正直なモノづくりはできないものでしょか。

カスタマー感覚

かつて、かのスティーブン・スピルバーグ監督が映画作りの秘訣を尋ねられたことがあります。
その時、スピルバーグは、「僕は自分の見たいと思う映画を作っているだけだよ」と答えています。
そう聞くと私たちは、「さすが天才、言うことが違う」と訳もわからず絶賛します。
その時の気持ちは、「何も考えず、自分のしたいようにして、それでヒット連発なんだから、全く才能は不平等だな」と言ったところでしょう。
しかし、「自分が見たいと思う映画を作っている」と言うことは、スピルバーグは消費者としての感性を忘れていない生産者であることを意味します。
前段の喩えなら、壁の表にいるままで生産者としてモノづくりが出来ているのです。
これ自体物凄い才能かも知れません。
いわばカスタマー感覚です。
果たして、私たちは自分が生産をしているものを市場価格で買いたくなるでしょうか。
よく振り返って、消費者感覚を忘れていないか反省をしたいものです。