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今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

考え方を考える

(写真:さくらホテル)

考え方を考える

「考え方を考える」
へんな日本語である。
でも、これはとても大切なこと。
「考え方」にもいろいろあって、やみくもに考える人もいれば、材料を集めてじっくりと考える人もいる。
中途半端なところで考えることをやめてしまう人もいれば、納得できるまで考える人もいる。
考えが浅かったり、まずいと周りからは残念な人と思われる。
反対に深く考えて、相手の思いつかないところまで考える人は思慮深い人と尊敬される。
自分は間違いなく前者の残念な部類。
浅い考えで発言をしては、恥をかいている。そして、自分の愚かさに呆れ果ててしまう。
でも、頭の良し悪しだけなのだろうか。
自分は正しい「考え方」を学んでいないだけなのではなかろうか。

考えの浅い病

正しく考える。
それに何が必要だろう。
自分は、周りからの刺激に弱い。
何かを言われるとすぐ反応してしまう。
それで、たちまち意に沿おうとアクションを起こしてしまうから、すぐにまずいことになる。そのアクションで次に何が起きるか全く理解できていないのだ。
本当なら、次はどうなる、そうしたら次は、と深く考えてから行動すべきだった。
それをしないから、もう次の段階で行き詰まってしまう。
これは癖と言うより、病気に近い悪い習慣なのだ。

思慮深い人

思慮深いと言えば、頓知で有名な一休和尚。
ある時、何かというとすぐ人の揚げ足をとる男が一休のもとを訪ねた。
そして開口一番、「一休さん、わしはあんたに聞きたいことがあるのじゃが」と切り出した。
一休の返事も待たず男は「お釈迦様のお父さんの名前を教えてくれんか?」と続けた。
対して一休は、何も言わず口をポカンと開けているばかり。
「どうした、一休和尚、これくらいのこと答えられんのかい。」
なおも挑発する男にも、相変わらず口をポカンと開けたままの一休さん。
さすがに、これはラチがあかんと諦めた男は、「なんじゃ、一休と言っても大したことないのう」と散々嘲りながら帰って行った。
それを裏で見ていた小僧は悔しくてならない。
「和尚様、なんでお釈迦様のお父様の名前くらいお答えにならないのですか?
私でも知っていましたのに。もう陰で見ていて悔しくて、くやしくて。」
すると、一休和尚は、
「別にあの男はお釈迦様のお父さんの名前が知りたくて来たのではないよ。」
と答えた。
「あのな、あの男はわしを困らせようとやって来たのじゃ。もし、あそこでわしがお釈迦様のお父さんの名前を答えていたら、今度はそのお父さんはと来る。それも答えたら、さらにまたそのお父さんはと来る。そうなるとわしも知らんわい。
じゃが、一休のやつ、口もよう開かなんだといわれるのが癪だったから、口だけは開けておいたのじゃ。」

正しく考えるのに必要なもの

ある意味、ひねくれもの同士の問答。
でも、小僧のように、すぐ自分が思いついた答えに喜んで飛びついたらどうなったか。
一休和尚の言うように男に問い詰められて、目を白黒させていただろう。
正しく、深く考えるには、自分が考えついたことの次を考える。しかも一つだけでなく、可能性を幾つも考える。
そして、次の次まで考える。
一休和尚はさすがの知恵者である。
むしろ、深く広く先まで考える癖が身についていると言える。
一休さんと頭の良し悪しを競っても仕方ないが、どれほど深く、いろんな可能性も含めて、何手も先まで考えているか反省したい。
才能や知恵の問題でない。自分に考える習慣が身についていないだけである。
あと少し深く、もう少し可能性も含めて、先まで考えるように意識してみる。
一休さんには及ばないけど、何が正しい思考なのか、考え方を考えられる人間になれたら有難い。