今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

40歳より前は勝つように、40歳からは負けぬように

(写真:もも色の稜線)

甲斐の武田

甲斐の武田、かの風林火山で有名な武田信玄です。
武田信玄は、先祖代々の甲斐の守護であった武田氏の19代党主にして、真田昌幸の主君でもあった武将です。
風林火山の旗を押し立てて攻めよせる姿は、好敵手の上杉謙信と並んで戦国最強の武将と称されます。
隣国の信濃に攻め入った武田信玄は、上杉謙信と五度の川中島の戦いを繰り広げながら、ついには信濃全体を領するに至ります。
さらに、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部へと領地を拡大します。
そう、三河、美濃と言えば、徳川家康、織田信長の領地でした。
駿河から三河に攻め入った武田信玄を、徳川、織田連合軍が迎え撃ちますが、有名な三方ヶ原の戦いでは、家康は散々武田軍に打ち破られ、命からがら逃げ延びています。
そして後の戦国の覇者、織田信長すら恐れていた最強の武将、それが武田信玄でした。

信玄の教え

徳川を打ち破り、そのまま織田をも馬前の塵と変える勢いの武田信玄でしたが、惜しむらくはその戦役の途中で病に倒れます。
しばらく信玄の死を秘した武田家を、四男の勝頼が継ぎます。無敵の武田騎馬軍を頼みに織田信長と対峙した勝頼でしたが、有名な長篠の戦いで討ち死にをし、ついに武田家は滅亡をするのです。
歴史に「もしも」は無いと言われますが、もし武田信玄が志し半ばで病いに倒れなければ、日本の天下統一の覇者は変わっていたかも知れません。
その武田信玄に、このような言葉があります。
曰く、
「弓矢の儀、とり様の事、40歳より内は勝やうに、40歳よりのちは、まきざり様にと、ある儀なり。」
武田信玄は、戦の心構えを、40歳までは勝つように、40歳を過ぎたら負けないように戦うべきだと教えています。
これには、どう言う意味があるのでしょうか。

体力と経験

武田信玄の時代の40歳と言えば、人生の晩年に近い歳です。
人生50年の時代、人生80年の今に引き当ててみれば、当時の40歳は、今の64歳に当たります。
ほぼ定年を迎えて、再雇用されようかと言う歳です。
ここで、40までと言われるのは、若くて体力も気力も漲っている時です。
そんな時は、多少無理に押し寄せても、最後は力ずくでも勝ちを拾うことができます。
だから、少々危ういところがあっても、勝つように攻めていくべきだと言っています。
そして、40までで経験を積んで、それを過ぎて体力が衰えた時は、その経験を生かして最大限負けないように戦うべきだとも教えています。
信玄の言葉は、「無理が効くうちは、最大限挑戦して経験を積み、無理が効かなくなったら、経験を生かして守りに徹せよ」と受け取ることができます。
しかし、晩年に三河を攻め、織田と対峙した信玄には、守りに入っている姿は微塵も見受けられません。

生き抜く知恵

晩年まで領土を拡大していった武田信玄は、生涯攻めの人生であったように思います。
武田信玄が最強と恐れられたのは、その軍略の巧みさ故です。
三方ヶ原の戦いに於いて、武田信玄の進撃に恐れをなした徳川家康は、一旦は浜松城に籠城を決めます。しかし、城を包囲せずそのまま西上を続ける武田軍に対して家康は三方ヶ原に出陣、そこで最強の武田騎馬軍に散々打ち破られています。
つまり、敢えて城を包囲せずに進撃すると言う挑発をして、家康を自分たちの有利なフィールド(騎馬戦)に誘い出すことに成功しているのです。
若い家康に対して、老練な武田信玄の軍略が遺憾なく発揮された戦いでした。
信玄は、自分が若い時から経験を積み、磨いてきた軍略で危なげなく戦を進めることができました。
それは、他国を切り取り領土を広げてきた、40までの火のような進撃の日々で積み重ねたものでした。
思えば、私もまだ人生50年の時代の40には程遠い歳です。
その日まで、「勝つように」攻めで戦わねばならないと思います。安定に固執し、経験で生きるにはまだまだ早い、のですから。