今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

道を示す人

(写真:満開の庭)

偏在する「先生」

「先生」。
急にそう呼ばれて、ビックリすることがあります。
「いや、あなたの方が人生経験は豊富だし、いろんな知識も深いじゃありませんか。」
そう言えば、
「いえいえ、それはそれ。これについては、あなたの方が詳しいから先生なの。」と返されます。
しかし、私のようなものに「先生」とは、なんとおこがましいことでしょう。
今の世の中、複雑になった分いろんな知識が必要になりました。そして、いろんな知識を持った専門家が現れています。
例えば、
コンピューターの「先生」。
健康の「先生」。
経営や税務の「先生」。
料理や裁縫の「先生」。
あるいは、いつも頼っているGoogle「先生」。
世の中には、いろんな「先生」が偏在してしています。

道を示す人

「先生」とは、どんな人でしょうか。
主に「先生」は、学校や大学、塾のような教育機関に勤め、人を教える仕事に従事している人を言います。
あるいは、慣習的に政治家を先生と言ったり、医師を先生と呼びます。
また、弁護士や公認会計士、経営コンサルタントのような専門性の高い仕事に就いている人も先生と呼ばれます。
いずれにしろ、先生とは「様」「殿」「さん」に比べて、かなり尊敬度合いの強い敬語であり、それだけ重い役割を担っていると言えます。
その役割とは、道を示すことです。
私たちは何につけ、あまり知識を持たないことでは、どうしたら良いか迷ってしまいます。
そんな時、「こうしたら上手く行きますよ」「大丈夫ですよ」と導いてくれる人はとても有り難い存在です。
そして、その人の指導によって、間違うことも、時間を無駄にすることもなくなるので、道を示す「先生」と尊敬をするのです。

人生の「師」

私も人生でいろんな「先生」に会って来ました。
幼稚園の先生、小中高の先生、予備校の先生、そして大学の教授。
会社に勤めれば、会社の上司や先輩が一番身近な先生になります。
お医者さんや、セミナー講師、技術を指導してくれる人や、健康の指導員等。
しかし、それら先生の中で一番得難いのは「人生の師」です。
人生の師とは、人生そのものの先生を言います。
人生と言えば、かの吉川英治氏に『人生列車』と言う文章があります。
曰く、
「発車駅の東京駅も知らず、横浜駅も覚えがない、丹那トンネルを過ぎた頃に薄目をあき、静岡辺でとつぜん“乗っていること”に気づく、そして名古屋の五分間停車ぐらいからガラス越しの社会へきょろきょろし初め『この列車はどこへ行くのか』と慌て出す。」
人生列車は我々に選択を与えずいきなり走り出し、乗っていることに気がついた頃はかなりの時間が経っています。
しかも、いずれ終着せねばならないことに気づき愕然とします。
果たして、行き着く先はどうなっているのか。幸せな終着点か、あるいはひどい結末が待っているのか。
そして、誰しも幸せな終着駅を願うから、そのために列車の中でどう過ごすかを一生懸命考えます。

稀有な人生

父親のように生きれば良いのか。
しかし、頑張って働く割にはいつも辛そうな顔をしている。
そんな人生は御免だとばかりに、父親の生き方を否定して別の生きる道を求めます。
でも、父親を否定したら、今度は誰に生きる道を教われば良いのでしょう。
歴史の偉人か、テレビに出ている著名人か。
世の成功者か、はたまた身近にいる尊敬する先輩か。
それらの人の生き方に共鳴し、その後を慕うなら、彼らは私たちにとっての人生の師かも知れません。
しかし、それらの人自身幸せな終着点にたどり着いているのでしょうか。一時期だけ見れば成功者かも知れませんが、故田中角栄氏のように晩年幸せでなかった人もいます。
そうなると私たちはますます自信がなくなり、世間一般の意見に身を委ねるようになります。
それは、お金があれば幸せとか、高い学歴を身につければ幸せとか、結婚すれば幸せとか、家を建てれば幸せとか、いわゆる皆が幸せと考えて求めるものを、自分も求めて走り出すのです。
でも、それで本当に幸せになれるかは誰も証明も保証もしていません。
だから人生は、実に不可解な列車の旅と言わずにおれません。
その中、本当の人生の師は、間違いなく幸せな終着点への道を指し示す人です。
その人に出会えることは、人生最高の幸せであり、ましてや若くして巡り会えたなら実に稀有な人生です。
それだけ会うことが難しいのが人生の師とも言えます。
果たして、人生の師はどこに在しますか。
人生の師との邂逅は、誰もが心から願っていることかも知れません。