今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

もう自分の幻想に騙されるのは止めよう

(写真:額絵 その3)

なりたい自分と、本当の自分

なりたい自分って何だろう。
「あの人みたいになりたい。」
「あんな風に颯爽と生きてみたい。」
「あの人みたいに皆んなから仰がれてみたい。」
そんな理想の姿は誰でも持っています。
そして、それに近づこうと努力するのは良いことです。
なりたい自分の目標が身近にあれば、そこに向かって頑張ろうと気持ちも奮い立ちます。
しかし、気をつけなくてはならないのは、いつの間かなりたい自分にかなった気持ちになって、すっかり高上がりした自分がいます。
それは自分がなりたい姿であって、本当の自分ではありません。
そして、偉そうなことを言っても、それは形ばかりで、周りはそれに気付いています。
中身は相も変わらず不出来な自分なままなので、すっかりチグハグです。

幻想を知る

思えば、できる自分、いやできている自分は全くの幻想です。
たまたまタイミングがあって人より結果が出せたりすると、すっかりその道の権威みたいな顔をして人に意見を始める。
言われた方こそ良い面の皮で、「お前なんかに言われたくない」と思いながらも、波風を立てたくないから、一応は拝聴してくれる。
そんな優しさに気がつかないから、いつまで経ってもイタイ人は治りません。
幻想に生きている。
いや、すっかり妄想に取り込まれ、妄想で作り上げた自分に酔いしれる。
まったく困ったものです。

幻想の罠

思えばこれは自分だけではなく、人間の普遍的な病かも知れません。
なぜなら、とんとん拍子で急に偉くなったりすると、10中8、9、ほとんどの人間は勘違いします。
大勢の人間に影響を与え、多額のお金を動かせる立場になると、大きな単位でしか物事を見られなくなります。
昔、核戦争を描いたアニメで、アメリカの大統領がソ連の核ミサイルが着弾した時の被害想定を側近に尋ねました。
すると、側近は「100万人から200万人と想定されます。」と答えました。
それを聞いた大統領は「やれやれ簡単に100万も誤差を言う。これがプロの仕事というやつだ」と嘆息しました。
核ミサイルで100万人死ぬのと、200万人死ぬのでは、そこに100万人の差があります。その100万人の命は、組織のトップに近い人間の意識からは簡単に溢れ落ちてしまうものなのでしょう。
しかし、どんなに偉くなろうが、権力を持とうが、所詮は弱い一個の人間に過ぎません。
殴られれば血も出るし、斬られたら死なねばなりません。ましてや人の力を借りねば、今日明日満足に生きていくことも叶いません。
それを多くの人間が従うからと、自分とその他大勢の人間の命を同等に見られなくなること自体、もはや幻想に取り込まれているのです。
しかし残念ながら、その縮小版はどこにでもあって、勘違いで高上がりして、人を支配したり、されたり、いじめたり、いじめられたり、これこそ人間の幻想の罠です。

心の長者

なぜ、人間はすぐそのように幻想の罠に取り込まれるのか。
それは素のままの自分で人に向き合えないからです。
私たちは誰かと向き合った時、いろいろとその人の良いところ、優れたところとも同時に向き合わねばなりません。
自分より相手が優れていると分かる時、とても寂しく、薄ら寒い思いに襲われます。
そして、その劣等感の生み出す寒さに耐えられないから、私たちは優越感と言う衣服に身を包もうとするのです。
確かに、人より優っている部分を見つけると、私たちの心はポカポカ暖かくなる気がします。
だからか、人間が2人以上寄れば、常に相手を値踏みし、少しでも自分の優れているうところを見つけようします。特に、意地や我慢の権化のような男性同士が会話すると、なんとか相手より少しでも上に立とうと精一杯背伸びをし合っているように聞こえます。
だからか、私はどうも男同士の会話はあまり得意でありません。
そして、挙句に自分に持たないものまで妄想して高上がりする。
つまるところ、優越意識の行き着く先は自分に幻想を抱き、偉ぶっている姿です。
それにしても、そんな優越感と言う幻想の衣服をまとわずに人と接することができたらどんなに良いか知れません。
世には三長者有りと言われます。
一には、家の長者。お金やもの、地位や名誉に恵まれた人です。
二には、身の長者。なにより健康に恵まれている人です。確かに、お金や地位にいくら恵まれていても、病気に苦しんでいたらそれを少しも喜べません。
三には、心の長者です。家や身には何もなくても、自分の心が満たされて、嬉しい人です。
そんな心の長者になれたら、つまらぬ幻想に身を委ねなくても、生きているまま、人に接するままが満足でしょう。
そう考えると幸せとは身近にあります。しかし、同時に非常に難しいことが分かります。