今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

我が活動

(写真:足助町の路地裏 その3)

東北から、熊本から

2011年3.11、東日本大震災。
そして、今年4.14、熊本地震。
被災した地域から、悲惨な映像が届けられました。
その映像に日本中が思わず見入って、足を止め、果たして自分はこんなことをしていて良いのかと自問しました。
震災の被害にあった地域は、今までの日常が破壊し尽くされました。
そして、同じ地続きとは思えない、それは我々の日常とは断絶された光景でした。
ついこの間まで普通に新幹線や飛行機に乗って訪れることができて、私たちと何ら変わらない生活をしていた人たちが、平穏な日本と隔絶されている。
なのに、私たちの日常は変わらない。
その変わらないことに、後ろめたさを覚えました。
あるミュージシャンは、普段通りにステージに立てなくなったそうです。
「今、自分がすべきなのは、こんなことだろうか。」と。

動く人、動かない人

その気持ちに押されて、大量の支援物資が送られ、多くのボランティアが現地を訪れました。
苦しんでいる人たちに、何かせずにはおれなかったのです。
なけなしの貯金をはたいて、義援金を送ります。あるいは、週末を利用して、少しでもお手伝いをしたいとボランティアに参加します。
それを見ながら、自分は日常に縛られ一歩も動くことはできませんでした。
いや、少しばかりの支援はさせて貰ったように思います。
でも、現地に赴き活動する人に比べれば、なんと小さな行動でしょう。
しかし、自分は自分なりにここで果たさねばならない義務があり、責任があります。
それを放り出して東北や熊本に馳せ参じるわけにはいかないのです。
ただ、それはあくまでも平穏な日常が前提です。
もし、日常が災害により破壊されたら、もう日常の義務とか責任とか言ってはおれません。そして、彼の地で支援を待っているのはそう言う人たちなのです。

戯曲「蓮如」

このような葛藤はいろいろな場面で見られます。
かつて、五木寛之氏が蓮如上人500回忌に合わせて、戯曲「蓮如」を発表しました。
蓮如上人の時代は応仁の乱を発端に世の中が乱れに乱れた時代です。
「本願寺を再興し、正しく祖師親鸞聖人の教えを伝えたい。」
そんな熱い思いから、蓮如上人は御文(親鸞聖人の教えを書き記した手紙)の執筆に没頭されます。
それに不満を抱いたのが、いつも側にいた加助でした。
「戦に流行り病、飢饉で街には死体が溢れているのに、何故蓮如様はそれらの人たちに手を差し伸べられないのか。まことの宗教家ならば、そうすべきでないか。」
今死にゆく人たちは、言葉では助けられない。言葉でなく行動で、文ではなくこの手足で、一人でも多くの人を助けたい。
そんな思いに突き動かされた加助は、蓮如上人のもとを離れ、苦しむ人々の中に飛びこんでいきました。
方や蓮如上人は、御文の製作一つに精魂を傾け、ついにその一帖目一通が完成したのです。
その御文が全国津々浦々に広まり、日本中に親鸞聖人の教え、浄土真宗が伝わったのは周知の通りです。
しかし、戯曲の中とは言え、何故蓮如上人は、目の前の苦しむ人に一杯の粥を与える活動より、御文で教えを伝えることを優先されたのでしょうか。
今消えゆく命を慈しみ、一人でも多くの命を助ける、それが真の宗教家のあり方ではないか。
そんな加助の思いに賛同する人が多いと思います。

我が活動

それについて、有名な歎異抄にこのような一節があります。
「慈悲に聖道浄土の変わり目あり」
慈悲とは、目の前の苦しんでいる人を放ってはおけない心です。そして、苦しみを抜いて、幸せにしたいと願う心です。
その慈悲に聖道と浄土の違い目があると言います。
例えば目の前に飢えている人がいれば、食べ物を与え、ゆっくり休息を取らせて元気を取り戻して貰おうとします。このように私たちが苦しんでいる人に対して行う支援を聖道の慈悲と言います。
しかし、一時は助けることはできても、ずっと与え続ける訳には行かないので、またいつか飢えて苦しむかも知れません。
そして、どんな親切も一生施すことはできないから、結局不満足なままで終わってしまうのです。
これが聖道の慈悲です。
それに対して浄土の慈悲は、変わらぬ幸福が説かれている仏法を伝え、それを体得してもらい、未来永遠に末通った幸せな身になって貰うことです。
加助は目の前の苦しんでいる人に聖道の慈悲を施しました。それはとても立派なことですし、彼の立場としては一番正しい選択だったと思います。
そして、蓮如上人は仏法を伝える僧侶の立場として、自分ができる最高の施し、浄土の慈悲に力を注がれたのだと思います。
ひとえに、慈悲と言っても人それぞれです。
必ずしも皆が同じことをしなければならない訳ではありません。
ミュージシャンなら、ステージに立って元気を届けてくれることが最高の活動です。
もちろん、現地でボランティアに挺身し、多くのものを捧げている人は尊いと思います。それは、それだけの気持ちと力を持っている人で、また将来に受ける結果はとても素晴らしいものでしょう。
翻ってそこまでの力がない私ですが、自分は自分なりの活動があります。自分でもできる、そして自分しかできない、そんな活動を力一杯させて貰いたいと思います。