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今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

交流

(写真:足助町の路地裏 その2)

交流

ある時、かの二宮尊徳が、振興に尽力していた村の民を集めて説いて聞かせました。
「自分にかき寄せれば、脇をすり抜けて逃げていく。向こうに押せば、巡り巡って自分に返ってくる。全てこの習いさ。」
これは、二宮尊徳の風呂の哲学と言われる教えです。
つまり風呂に入って、温かい湯を自分にかき寄せれば、湯は自分の脇の下をかいくぐって後ろに逃げていきます。反対に向こうに押せば、湯は湯船をグルリと巡って、また自分のところに戻ってきます。
同じように自分ばかりに利益をかき集めようとしても、すぐに身から離れるのでいつまでも恵まれません。反対に相手が得をするように心がければ、やがて生かし生かされて、恵まれ過ぎるほど恵まれるのです。
だから、人もお金も利益も、そしても心も循環してこそ恵まれます。
交流こそが、周囲と私たちに幸せをもたらすと二宮尊徳は教えています。

交流で傷つく

しかし、交流で生かされることもあれば、反対に傷つけられることもあります。
特に、今までと全く違う価値観の人ばかりの中に飛び込むと、心がうまく通じあわず、互いの気持ちが停滞します。そして、交流するのは厳しい言葉と恨めしい気持ちばかりです。
そこでは、交流する度に傷つきます。
面白くないのでついついキツイことを口にし、言われた方も反抗心を剥き出しにする。それでも、きちんと心を通わせ、気持ち良い言葉で交流したいと思うのは皆んな一緒です。誰一人自ら進んで、鬼や蛇になりたい人はいません。
ただ、誰もが自分のことで手一杯で、相手に合わるだけの気持ちの余裕がないのです。
そこでついつい気持ちのまま口にし、相手を手酷く傷つけます。

自分を守る

傷つけられたら、私たちは自分を守ろうとします。
表情を殺し、言葉少なになって、一生懸命相手をシャットダウンしようとするのです。
また、それが相手にはますます腹立たしく、より厳しい言葉をぶつけずにおれません。
そして、ひどい人は固く蓋を閉ざして、自分の世界に閉じこもります。
それは、いわゆる引きこもりです。
では、引きこもるのは、弱い人間なのでしょうか。あるいは、特殊な人間なのでしょうか。
入学や就職、あるいはアルバイトなど、新しい世界の扉を開く時、人は誰でも不安一杯のヨチヨチ歩きです。
でも、同時に新しい環境に期待を膨らませて、全身で周りの空気を吸い込もうとします。それは、早く環境に慣れたくて、無防備に自分をさらけ出して頑張るからです。
つまり、全身を使って交流をしようとするのですが、そこで拒絶されたり、厳しい言葉を投げかけられたらどうでしょうか。
そのまま身体中で毒気を吸い込み、たちまち機能不全を起こします。
それを心に引き起こしたのが、引きこもりなのです。

交流で成長する

自分は引きこもりではありませんが、人との交流を好まないところがありました。
おそらく、人との距離感が上手くつかめず、人の毒気に当てられたり、時に人に毒を注いでいても気がつかなかったりするのが原因です。
だから、私にとって、人との交流は傷つき、傷つける以外の何物でもありませんでした。
それで自分の周りに壁を築いて、人との交流を絶とうとしました。
でも世界が広がるにつれ、それでは許されなくなっていきました。進んで交流をし、コミュニケーションを交わさなければ、人の力を借りて事を成し遂げることはできないからです。
時に厳しいことを言う同僚、自己主張が激しい人、クレームを口にするお客さん、そんな人とも自分を開いて言葉と気持ちの交流をせねばなりません。
そして、至らない自分を責められ、辛い言葉を投げかけられます。それで、心が機能不全を起こしそうになりますが、それをグッと飲み込んで、よくよく考えてみれば相手にも一理があります。
むしろ、厳しいことを言われるのは、言われるだけの理由が自分にあるからで、いかに言われたくない相手でも、正しいことを言っているのなら、心に逆らって受け入れねばならないのです。
そうして、辛い交流は、見えなかった至らない自分を気づかせ、成長をさせてくれます。
楽しい交流は親愛を育て、辛く厳しい交流は自分を育てます。
そのように、気持ちも心も、財も自ら進んで交流させられる人間になりたいと思います。